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「死」に付いての二三のこと


 若い頃海水浴で死にそこなったことがあった。酔っぱらって夜の海に飛び込んだのはいいが、沖に流されてしまった。友人が異変に気づき、助け出されるまでの時間(三十分?一時間?時間の感覚など麻痺して分からない)、「助かる」という以外の考えを受け付けていない自分に気づいた。

 この経験は大きかった、頭の中で考えていた「死」に対するそれまでのさまざまな考えは吹き飛び、「生きている」ことを素直に受け入れることができるようになった。
 「人は何のために」に生きているのではなく、「ゴキブリやネズミが生きているのと同じ原理」で生きているのだ。と素直に思えるようになった。

 それ以前、関わっていた「水俣病患者支援の運動」は、物理的なことでは「支援」だったかも知れないが、心の中では、「迷える子羊」の心の隙間を埋める作業、患者さんに大切なものをたくさん貰った。
 でも、運動の節目には、自殺するものや、医者の世話になるものもたくさん出た。 突然行方不明になったり、すぐに自分の世界に閉じ込もってしまう僕は、仲間達から、「注意人物」の一人に加えられ、「自殺だけはするな。」といわれていた。

 二十歳の頃、町工場で目の前で友達に死なれたことがあった。八十度のお湯の槽に落ち全身火傷であった。脱力感に襲われ、立ち直るのに半年ほどはかかった。

 小学生の時、二番目の姉が死んだ。優しい姉で一番好きだった。中学になるまで、次は僕が死ぬ番だという悪夢に襲われた。「死」といったものが一生のテーマとなった。

 そして、その後多くの「死」にであったが、「ゴキブリやネズミ」のように最後の最後まで「生きる」ことが一番、その次に「出来たら人間としていい生き方」と考えればいいことである。
 今、生きていることがなによりも幸せ、とつくづく考える。有り難いことです。
2006 12/23 Mamoru Muto

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