思い出すまま - No92 / prev top next


 絵描き
 見事に作品は作っていません。随分長く、十年ぐらい描いていないのかなと思って調べてみたら、高々三年。僕も随分せっかちですね。二十年、ほぼ毎年個展をしてきたです、ねた切れもいいとこです。十年絵から全く離れていてもいいと思っています。表現すると言うことは、絵に限る必要はないし、絵描きである前に人間です。それも唯の人間です。唯の人間として生きることが一番大切だと思っています。
 でも、時々いい絵のイメージが浮かんだり、何か新しい表現のイメージが、衝動が感じられたりするのですが、それが長続きしません。一週間二週間すると別のものに変わってしまいます。これでだけです。同じ衝動が、半年一年と続かなくては、一つの形にはできません。言葉、表現とは心を伝えるものです。元もと形にできないものなのです。形にできないと人には伝わらないから、より性格に形で捕えようとするのが描くと言うことです。その追いかけっこです。
 僕もこれから五十代後半、六十代ととても不安な事ばかりです。全くの未知の世界です。その不安を解決する方々の一つとして、絵が必要になるときがくるかも知れません。その時まで待ちましょう。と言うのが今です。幸い、この新聞まで止めなくてはならない状態ではありません。文字言葉で現わせないことがでてくるまでお待ち下さい。
 
 
 富士山・宝永火口  ━吉沢元治さん七回忌━
 9月26日、メグちゃん、陳さんと富士山の宝永山にお線香を上げに行ってきました。早いもので、吉沢山が死んで六年、はや七回忌です。僕はみんなで散骨したこの場所には来たたかったのす。
 あいにく秋雨前線がかかり、山は雲の中、なんにも見えませんでした。途中から雨まで降りだしてきました。
 ガンが悪化した最後の一年は大変でした。でも生前葬コンサートが追悼コンサートになり、遺骨はここ富士山にみんなで撒いたりと、他の人の葬式けしてなしえない楽しいイベントになり、僕にとっては目から鱗が落ちた思いでした。そんなわけでここにはお線香を上げに来たかったのです。
 これ以上のことはなかなか積極的に動く気分にはならず、特別のことはなにもしておりません。
 時間のなせる技と言うことでしょうか、建物が雨風にあたり風化するように、記憶の中からも少しずつ薄れて行くと言うことが自然でいいんじゃないんでしょうか。
 
  「目」からそして敵
 猿と人間が違う身体的特徴の一つに目があるそうです。猿には白目がない。白目は人間だけの特徴だそうです。その意味するものは、白は目立つと言うことです。原始の人々にとって(今でもそうですが)敵に容易に見つかると言うことです。そして表情豊かな目は、他の動物(敵)に出くわした時、「恐れて逃げようとしている」とか、「襲ってくる」とかと言った心の中が見えてしまう事は不利なことです。と言うことは、人間は他の動物(敵)を意識して、進化してきたのではないと言うことです。
 目を始め豊かな顔の表情はけして「敵」前提に進化したことではありません。表情と言うのは心の中、感情や思考を外に伝えることです。人間が社会を作り、感情までも共有することによって進化してきた証なのです。社会の中で協力すると言うことが、人間が人間であることの本質なのだと思います。
 勿論、人間の数が増え、多くの小社会が作られ、さまざまなレベルで人間同士が戦うようになったのが今日の社会なのです。その戦いもルールを作って限界を規定してコントロールしてきたのです。僕は、相互扶助や協力と言った、人間同士のコミュニケーション能力が「種としての人間の本質的なこと」だと思います。これを忘れない限り、人類は滅びることはないと思っています。

 「敵」言う概念は、自分に危害を与える存在と言うことです。誰でも、自分が一番大切だと思っています。他の動物だってそうです。コミュニケーションとは相手もそういう存在であると言う認識から始まり、相手と自分の共通点と違いを見つけだす作業です。世の中にあるさまざまなトラブルはこの基本を忘れている、あるいは勘違いしていることから起ります。例えば親子の関係を見ればよく分かります。親に依存しなければ生きていけない子供ですが、決して依存だけしている存在ではありません。自我を日々成長して最後は独立して行くものです。その変化に気づかず歪みが大きくなったとき、非行に走ったり、事件になったりすることは皆さんの知るところです。
 大きな組織や国家は「敵」を意識的に作り使ってきたました。かっての日本のように、また今の北朝鮮のように、「敵」を作ることによって体制内の矛盾に目をそらさせ、体制維持してきたのです。ブッシュのアメリカも同じです。テロは多分にアメリカの中東政策の間違いから起ったことなのに、その反省もせず、「敵・アルカイダ」に全ての責任を負わせ、敵をアフガンからイラクに拡大した。為政者がよくやる巧妙な手口です。個人や小集団のレベルでも、個人や集団の内の問題を他人になすりつけている例はたくさんあります。
 情報が充分行き交い、人々が行き交えば決して戦争とかいう馬鹿馬鹿しい事は起りません。こんなに複雑怪奇になってしまった現代社会、「敵」を作らないと言うことは難しい事というより、避けられない無理なことでしょう。でも、一人一人はとても単純な原理で動いているものです。複雑怪奇にしているのは何が自分に必要で何が必要でないかなど、整理できていないからに過ぎないと思います。問題が生まれても、時や場所を選べば、「人と人は必ず分かり合えるもの」と言うことを一点押さえておけば、何事も大事にならず済むと思います。僕はそう信じています。
 
 
 ウィルス
 コンピュターのパフォーマンスが悪いので基本ソフト(OS)から入れ替えたら、えらいことになってしまった。ADSLモデムの調子がどうもおかしい、使っているうちほかの作動も遅くなってきた。モデムの点検から始まっり各種設定、各種ソフトのチッェクを延々やった末、原因がウィルスに感染したためと分かった。「トロイの木馬」という種類のウィルスである。すぐに、ウィルス撃退ソフトを入れたが、圧縮しているので駆除できないという。仕方ない、最初からやり直しである。
 それで焼きが回ったか、ほとんど元に戻ったとホットしていたら、別のところで致命的なミスを犯している。また最初からやり直し。一日のはずの作業が一週間経っても二週間経っても元には戻らない。ド壺にはまってしまった。ついついつまらないミスをしている。
 この作業で、インターネットに繋いでいるだけで常に、三十秒もしない内にさまざまなウィルスの攻撃を受けていることがわかった。今まで、自動的に送られてくる対ウィルスファイルのおかげで気づかなかったが、こんなに蔓延しているとは。
 それにしても「ウィルス」とこの種のファイルを命名したことに感心する。単独で何の作業もできないが、コンピュターのファイルに取り付いて悪さをする。そして増殖する。でもこれを作っているのは、コンピュターのことをよく知っている専門家です。ファイルの体系に組み込むことができれば、有益なソフトになる可能性さえあるものです。何でも同じです。便利なものにはその便利さを反故にするものが存在する。常に便利さに慣れっこにならないことが大切と言うことでしょう。
 やっとのことで、元には戻った。でも、パーマンスの遅さは変わらず。対ウィルスソフトや修正プログラムためで、システムそのものの変更をしているので、改善できないことも分かった。なにやっていたんだ、僕は。
 
 自然災害
 御袋の一周期の法要を終え、兄弟の飲み会が始まろうとしていた夕方、ガタガタと突然やってきた。テレビをつけろ、兄はよぱらったフラフラの状態で村ほかの家の様子を見に出ていった。幸い会津の実家周辺は震度五弱で被害らしい被害は出なかった。せっかくこの時期会津に帰るだから、奥只見から新潟の小出に抜けるコースをとり紅葉見学に行こうかと思っていたのだが、断念せざるを得なくなった。テレビ報道を見るにつけ、近間の出来事なので被害地の大変さが実に迫ってくる。
 今年は台風が大判振舞の出血サービス。何もしなくても一寸先は闇とはよく言ったことです。人のは諸常無定です。人間の力など蟻ん子と同じということです。あまりじたばたしないというのはできそうもない。その時はオロオロしましょう。