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――――――――  49号  ――――――――

ムトウの中国旅行記

 

 四月に20日ばかり中国に行ってきました。

国外に出るのは2年ぶり、さりとて今回は、目的らしい目的はなく、強いて言えば、中国の沙漠地帯を歩いてみたいと言うことでした。いい気分転換になってくれたらいいが、それは返ってきてもうしばらく経ないと分からない。

 上海に飛行機で入国して、西安、酒泉、敦煌、哈密(ハミ)、吐魯番 (トルハン)と回り、上海に戻ってきた。全行程約6000km、ほとんど列車で、その内バスは2日ばかり1000km程。何と広いのだろうか。半分は移動のために費やしたことになります。西安まで1500km24時間の火車ホーチォ(列車)、酒泉までまた1500km30時間火車、敦煌までオンボロ汽車チーチォ(バス)で500km、ハミまで500km汽車、トルハンまで500km火車、返りは上海まで70時間の直通火車。 始め、敦煌の先まで直通の火車で行き、新彊地区だけ回ろうと思ったのだが、半日キップ売場をぐるぐる回って持てに入らない。言葉が分からないので、当日、翌日のキップは無理と分かるまで半日以上かかった。それで乗り継ぎゆくことにしたのだが、御覧のように距離があるので、それがたいへん。吐魯番に着いた時には、半分以上の時間を使ってしまうし、風邪も引くやら、もう疲れてしまって、その先に行く意欲が亡くなってしまった。

 昔、都の官僚が地方に行くとは、10年20年は戻れない、もしかしたら、一生戻れないかも知れないと友人知人と酒宴を開きながら、3ヶ月、半年かけて任地に赴く。別れの詩や、再開の嬉しさを歌った詩が多く、旅が 中国の大きなテーマになっていたのも頷ける。行かなちゃ実感できない 広さです。

 

上海

 開放経済のおかげで、急速に変化する大都会。おそらく革命以前からあるだろう、平家の瓦の屋波がどんどん壊され、キノコのように、40階 50階の高層ビルがギョキギョキと伸びる。まるで町がみんな工事現場のよう。恐らく、キチンとした都市計画はない。巨大なビルや高速道路を作ることが、至上命題であり、そこで活動する人のソフト面を考える余裕はないと言った感じです。ビルの工法も日本のように鉄骨の骨組みに、パネル式のコンクリートや外壁材を貼ると言ったスマートなものではなくて、殺風景な打ちぱなしのコンクリート肌のビルを作ってから、最後にタイルを貼ってはじめてビルらしくなる。工事現場と道路を分けるのはロープ一本だったり、低いところだと、竹の足場だったりしている。鉄筋がほうぼうに出たコンクリートの塔が、古い家波の中に突如が建つのは不気味だ。60年代の日本の高度成長期よりずっと激しい変化のような気がした。

 駅前で地方から出てきた人々がホームレス化している。これを完全に無くそうとするのは、逆におかなことと思うのだが。子供のホームレスは大人の責任。社会主義の名に掛けてどうにかしてほしい。女性の社会進出は徹底している。自転車道路を必ず確保しているところや、この辺は日本よりは進んでいると思う。

 日本に返る前の一日お土産をを買いに盛り場を歩く。豫園商場ユィユアンシャンチャン東京の浅草と言ったところですか、明朝時代の大邸宅のまわりに、金行屋、工芸品、民芸品などの高級品の店が並び、更にその回りの路地に、日用品や、衣類の店が続く。時間を忘れてぐるぐる回ってしまった。次ぎが黄浦江から人民公園までの南京東路という2kmぐらいの通り。ここは、専門店やデパートが並ぶ。この2ヶ所で一日潰してしまった。

 今は、始まったばかりと言った印象です。革命前、東アジアのファションや新しい文化は 上海がリードしていたし、恐らく5年10年したら、今の香港のように東アジアをリードする新しいものを造り出す町になると思う。そんなエネルギーを感じる。

西安シーアン

 日本の平安京は長安の都を真似たというけど、巨大な石の城壁(現存するのは明朝のもの)でかこまれたこの古都は、もともと木の文化の日本とは全く異質な文化です。何の樹だろう、碁板の目の街路に植えられた樹は青々とした葉を付け、美しい。丁度タンポポの白い綿のような樹の種子が風に舞う。

 駅前のホテルに宿を取り、バスで城壁の外にある三蔵法師ゆかりの大雁塔ターイエンターに向かう。隣におかしなお寺があり、入るとすぐに地下に皇帝の像があるというので行くと、ここはまるで見せ物小屋、奥にゆかりの石像などがあるのだが、途中は、発泡スチロールかなんかで作った忿怒の仏像があったり、現代の作家が書いた壁画があったり、文化財というより、見せ物小屋的で面白かった。もちろん本命の大雁塔の方は可笑しくない、と付け加えておきましょう。 ここで三蔵法師のことを解説しますと、東アジアの仏教はすべて、玄奘三蔵に帰着する言える偉い人だったのです。彼のやった仕事の最大のことは、インドから教典を持ち帰ったことより、このお寺でそれを中国語に翻訳したことなのです。玄奘以後、仏教徒はすべて玄奘の解釈した教典を使うこととなり、彼の解釈を通して仏教を理解したという意味で、中国韓国日本の仏教の教祖なのです。

 ブラブラ5kmの道程を歩いて返ることにした。この塔の横の方に、家具の問屋街が並ぶ。大小50軒ぐらいあるのではないだろか。大きなダブルベットや、タンスや、彫刻をほどこしたテーブル。面白いのは、それら大型家具を運ぶのが、トラックでなく自転車とリヤカーを一緒にした三輪自転車なのです。さすがにタクシーは三輪オートバイか小型車だが運搬用はもっぱら三輪自転車が活躍していた。

 途中の博物館による。最近できた陜西省内のものだけと言っているが、ここは歴史の宝庫だから、北京の故宮博物館に次ぐと言っていた。2時間ほどで一回りしたけど、もうフラフラ、旅で体が緊張しているので、二倍ぐらい疲れる。敦煌の莫高窟の壁画を見た時も一緒だった。

 またブラブラと駅の方に向かう。路地という路地に市が立っている。5km四方の町の中心地、城壁の内外の路地という路地にバザールとなっていると言っても過言ではない。また路地ごとに、専門に分かれて、あるところは金物製品、あるところは青物市、あるところは衣料品・・・・と。

 この旅に出るまえある機関から、Faxが入っていた。それは暗号で解ーすると「?斗雲を捜せ」という秘密指令である。たくさんの路地を回ったが、?斗雲屋はない。言葉が通じないのでしかたない、手まね足まねで聞いて回る。おもちゃを売っていたおねいちゃんは「おじさん古いよ、コンピータゲームだよ。年寄りはもう!」などと行っている。でも、歩き疲れて立ち寄った飲物を売っていたおばあちゃんが耳寄りの話しをしてくれた。「八戒が?斗雲をのせ、三蔵法師までまきこんで、『三蔵大空宅急便公司』を始めたという、名誉主席が三蔵法師で、書記が八戒で、工作人が?斗雲と沙悟浄という構成。でも、孫悟空は、怒っているという。三蔵法師グループの堕落だと。天山山脈あたりまで行けば会えるかも」と。

 まだまだ西へ西へ。

 

火車ホーチォと酒泉ジュウチュアン

 中国の列車は座席が4種類あって、軟座と硬座、寝台の軟と硬。基本的にすべて座席指定なのだが、硬座の席は、途中から乗る人は、指定になっていないチケットが売られる。硬座、 硬寝台が普通の人間の席である。

 甘粛省の酒泉まで1500Kmを硬座で行くこととなった。30時間、大変かと思ったけど、それ程ではなかった。西安までは、軟寝台できたのだけど、硬座となると色々勝手が違ってくる。自分の席に行くともう僕の席に若い男女が座っている。キップを見せても動こうとしない。しかたない、空いたところに座ることにした。僕の座った席の人間に何か言われるかとビクビクしていたら、何にもない。早いものがち、指定券は有名無実なのである。また、デッキ以外は禁煙なのだけど、デッキまで出て吸っている人などいない。時々車掌が回ってきてうるさく言うけど、その時だけ。行ってしまえばまたプカプカやっている。

 みんな、穀物や、ジャガイモなどを入れる大きなビニールの大きな袋を何かたくさん詰め込んで一つか二つ持ち込んでいる。すぐに網棚は一杯、時々車掌が荷物の置き方をうるさく言ってくる。とにかく車掌の数が多いのだ。20人から30人ぐらいは乗り込んでいるのでないだろか。20両ぐらいの編成だから、一両に一人強と言った割合ですか。そして女の車掌が多く、一様に警察官のような少しいかめしい制服を着ている。

 マナーの悪さは更に続く。ペッペッどこでも唾を吐く、ゴミは平気で窓から捨てるのには驚いた。これはゴミ箱が硬座の車両にないのもいけないのだが、時々車掌が掃除して回るので、外に捨てることはないち思うのだけど。まるで、規則は破ることは権利だと思い込んでいるような気さえしてくる。

 同席した人々は一旦うち解ければもう友人で、お菓子やら、何やら回ってくる。日本人と分かれは色々言ってくるけど言葉が通じないので、筆談で簡単なコミュニケートを取るのがせいいっぱいなのが残念。旅で面白いのは、観光地や、盛り場ばかりではなく、普通車両や、裏通の庶民の人情が直に分かること。これが剥き出しの中国人なのです。

 火車は陜西省から甘粛省に入ると谷合を走るようになり、風景の緑も除々に少なくなり、岩だらけの山々が続くようになる。省都の蘭州ランジョウは黄河の上流にあたり、ここから武威ウーウェイの間は分水嶺に当たり、2~3000mの峠を越えた。まだ残雪が残り、雲行きが怪しくなってきたと思ったら、雪まで降ってきた。あの辺にきん斗雲が飛んでいそうな気もするが、只の雲ときん斗雲との区別がつかない。

 この峠の先からはもう河は、海には流れない、4~5000mの万年雪の雪解け水を集めた河は、流域に幾つかのオアシスを潤し沙漠のなかに消える。単線区間のため、時々知らない駅に30分、1時間と止まっている。そこでホームを眺めると、どんな駅でも、ホーム真ん中に一段高くなったお立台があり、そこに小さな屋根が付いている。そこに必ず、緑と赤の旗を持った駅員が立つ、駅員は日本のように男が圧倒的に多いと言うことはなく、ちょうど男女半々で、そして列車の通過を見送る。そのかっこうがおもちゃの国の駅長さんのように見えかわいらしく、可笑しい。

 どうも、遅れているらしい。小さい駅の周辺の家の人々がポットを持って火車に近づいてくる。お湯を売りにくるのである。寝台車には魔法ビンが備え付けてあるが硬座にはない。中国人はみんな小さなポット(300cc位入る)を持っていて、そこにお茶を入れている。それに一杯一元で売りにくる。なぜか懐かいものを思い出させる列車の旅なのです。

 4時間ばかり遅れ、酒泉には朝の6時ごろ着いた。ホテルの警備員を叩き起こして部屋を取る。小じんまりとしたいい町で、早起きの人々はもう町の広場で集まって、太極拳体操をやっていた。

 ここまでくると随分と午後は長い、北京時間を使っているためで、ここで2時間ぐらい時間がずれる。夜の9時過ぎまで明るく、得した感じである。町の名前は、古く漢の武帝からここの将軍に酒が下賜されたが、全軍が飲むには足らず、町の泉に垂らしたら、酒に変わり、兵士全員が飲むことができたという故事に由来する。泉も公園になっていて、3つあったうちひとつはまだ生きているというがどこだか分からなかった。

 もう一つ有名なのが玉で作った夜光杯、これをひと組買った。王翰の涼州詞の「葡萄美酒夜光杯」のフレーズのごとく23日の満月にはどこぞで、美味しいワインで乾杯とゆこうか。


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汽車チーチォ敦煌トゥンホアン汽車 哈密ハーミー

 ここからはバス、石ころ沙漠を走る。これこそが僕が見たかった風景。こんな殺風景な風景が何百キロもつづき、突然グリーンのベルトが見え そこが人間が生存できるところ。人間にとって本当の豊かさとは何かと考える時の基点になってくれる。今は春。日本とそんなに気温は変わらない。でも夏は40度以上の日が一カ月以上続き、冬は、零下20度30度まで下がる。雨はほとんど降らない。たまに降る雨は、豪雨となり、すべての大地を河にしてしまう。無数に大地にきざまれた河の跡、その内水の流れているのはほんの一部、そこだけが人間に与えかれた空間。

 昔、シナイ半島に行った時、何故モーゼが一神教を作ったか分かったようなきがした。ここより過酷な条件の中で何万人かのユダヤ人を統率するためには、余分なものはすへてきり捨てる必要があった。キリスト教、イスラム教と言った一神教の譜系がそこで作られた。そして、ここは、玄奘が東アジアに大乗仏教をもたす時の自然の関所となった。

 酒泉から少し行くと嘉峪関ジアイーグァン今残る万里の長城と関所。バスはとなりの玉門で昼飯の休憩を取った。玉門経済特区と書かれた大きな横断幕がバスの窓から見え、中国政府は、ここに西の工業団地を計画しているらしい。

 バスがオンボロでその上道は舗装されているのだけど所々アスファルトが剥がれていたり、工事していたり、そこを70~80km/hで突走るものだから揺れる揺れる。しっかり手摺に掴まっていないと天井にぶつかりそう。8時間も揺らされたら、もうフラフラ。

 あっ、そうそう、敦煌の手前の安西アンシーの町に大きな飛天を形取ったアーチがかかっている。敦煌トゥンホアンは琵琶を持つ飛天が町のシンボル。両方とも莫高窟バッコウクツの壁画から取ったもので、かなかなかかっこいい。そしてあるではないか、安西の飛天の横にくっいているのがきん斗雲の親戚の雲が。

 本当は日本人好みの観光地など、僕のいくところではない。普通の観光客のいかない旅をするのだ、とおもっていたのだけど、成行きでこうなったからには仕方ない、皆が行く莫高窟にも明日行くか。意地をはるのはやめ、秘密指令もあることだし、情報を集めなくては。

 朝、起きるとどうも体が重い。酒泉で薄着で朝寒かったか、バスの揺れがこたえたか。それでも、壁画を見にいった。一日観光のミニバスに乗ったのだが、一通り壁画を見てバスに戻るともう駄目、他に行く力が出てこない、風邪を引いたらしい。ここには珍しく砂丘があり、 そこに泉があり、鳴沙山ミンシャーシャン月牙泉ユエイイアチュアンとかロマンチックな名前が付いている。

でも中止、大事にならないうち休むことにした。薬はプロポリス。

 なんやかんやいってもあの壁画は凄いかった、昔の人の情念が貼り付いているので、見て損はない。見終わったら、他のことは何にも入らなくなってしまった。確かに、壁画には、天界の雲がたくさん描かれている。町では、孫悟空と八戒が子供を車に乗せピコピコやっている。でも聞く元気も出こない。旅の疲れもピークに達したようだ。

 とにかく、新彊の吐魯番まで行こう、西安のおばあちゃんの情報もある。うまく見付かったら、そこでボーとしょうと決めた。次ぎの日、少し体も軽くなったので哈密行きのバスに乗る。また延々500kmのボロバス、でも途中で野生の駝の群れを見る。まだいるんだと、驚きだった。バスのおかげでまた風邪をぶり返す。でもこれ以上は悪くならない様子。ひと安心。でも今度は咳が出てきた。哈密では何もせず寝ていた。

 その夜のことであった。部屋の窓を叩く人、人ではない何かがいる。窓を開けると小さな雲がヒューと入ってきた。そして、かわいい声でこう言った「おじさん、僕を捜しているの」 「君は誰!」と聞く、「僕は、きん斗雲Jr。『春』という名前、僕を捜していると聞いたけど、なにか用。」という。そこで指令の話しをした。「分かった、弟の『霞』と一緒に日本に行くよ。」「お父さんに了解してもらわなくては?」「お父たちは宅急便で忙しいから、心配ない、No problem.No problem.日本に行けるぞ、ヤッター」と春君。そこで秘密機関の住所を教えのことにした。「じゃ、ひと足先に行っています。良い旅を。」ヒュー、コッツン!閉めた窓にあたった音。あらあら、少し不安になったが、まあいいか。これで秘密指令の任務終了。僕もヤッター!

 

 

哈密 吐魯番トルハン

 ハミからはじめて新彊ウイグル自治区。この地区だけで日本の2、3倍はある。ここから西へ1500km行けばパキスタン、北西に1000km行けばカザフスタン、北東はモンゴル。北側は天山山脈、その北は草原地帯が広がるけど、南の崑崙クンルン山脈、チベット高原との間は広大な沙漠が広がる。そこに点々とオアシス都市が点在する。ほとんどが10万20万の人口だが、省都の烏魯木斉ウールームーチーは100万都市。

 ここから民族的には、トルコ系が多く住むトルキスタン。宗教的には、イスラムが多くなってくる。明らかなカザフ人、イラン系、モンゴル系、かなり髪の毛がブロンズという人々が ちらほら混じってくる。白い帽子を被って顎髭を貯えたイスラムのおじさん。「清真」というのがイスラムということ、飯屋も、大きく清真風とはいると、豚肉料理がなく、羊の肉が入ってくる。最近、トルキスタン諸国の独立に刺激され、民族独立の過激派が現れ、北京やウルムチで爆弾闘争をやったりしている。検問でもあるかと思ったれど、火車の車掌の手荷物のチェックが少し丁寧かといったくらいで、チベット程深刻ではないのだろう。

 哈密、ここはハミウリの名前の発祥の地、ホテルで寝て過ごす。翌日、トルハン行きのバスを捜すが、翌日にならないとでないという。三輪バイクのタクシーで駅まで行く、もうウルムチ行きの特快が入って、乗車口は反対側、駅員にこれに乗るのだといったら、車輪の下をくぐって行けというので驚いた。こちら側は駅員が15人ぐらい見ているし反対側は車掌が20人ぐらい外に出ている。安全確認はしっかりしているけど日本では考えられないこと。もちろん もう座れず、デッキで7時間。遠くに天山山脈の5000m級の山々が白い雪を戴いて見える。 5時ごろトルハンの駅に着くが、町まではここから60kmある、ウルムチは天山山脈の 北側だから、町に線路を通すと、大きく蛇行しなくては行けないからだろか。鉄道の概念ちがうのです。日本のように、通勤通学たのものというものが考えられない、まるで飛行機のよう。駅は、大河沿という場所、トルハン方面に流れる河の側だが、実際に流れているのほんの小川程度なのだが、河巾は100mぐらいはある。最近だろ、道が流されてしまっている。雪解け水だろか、集中豪雨があったのだろか。バスはしばらく川底を進むことになる。小さなオアシスを一つ越し、1時間半かかって町に着く。まだまだ日は高い。

 宿を取り、ワインを捜しに行くことにした。ここは、1000年以上の歴史がある葡萄の産地。2~3km街路樹が葡萄で道すべてが葡萄棚になっている。夜光杯を買った時から、由緒ある葡陶の産地だから、ここの美味しいワインで23日の満月の夜は一杯やることを楽しみにしていた。赤と白を2本、安い奴と高い奴を買った。ホテルに返って封を切って驚き。何と甘たるい酒か。もう一つは、漢字で葡萄酒と書いてありながら、裏に、英語でNon Alcoholと書いてある。アハハハ、ここは葡萄はあってもワインの伝統はなかったのだった。どこぞ近くの遺跡にタクシーを走らせ、ワインを片手に、何千年と続く民族の栄華盛衰、あるはペルシアの商人となり、あるは西域警備の兵士や将軍のように、悠愁の時間に浸ろうかと思ったのだが、無残にも砕かれてしまった。

 ビールは産地もたくさんあり、美味しい。黒ビールの系統は見かけなかったけど。中国酒は、豊富、でも僕には強いので見るだけ。

 見るところはたくさんあるけど、新しいものは入らなくなってしまった。動かず、沙漠の町でブラブラすることにした。もうこの先には行かない。暖かくて、Tシャツで過ごす。良い季節は、これから、40度の日が40日も続くけど、色々な果物が出てくるし、お祭もあるし、夏が楽しいと言うこと。この乾燥した空気。ポプラの緑が美しい。ここで僕の旅は終わりにすることにした。

 

Mamoru   5/2 ’97


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 日本返ると



 日本返ると、むっとする湿気、初夏の緑。成田からの返りの電車から見える田畑は何とこまこままと整備されていることだろか。生真面目な日本人。この真面目さ がここまでの産業大国におしあげた。おそらく中国はこうはならない。適当に真面 目さだけで統一できたからやれたまで、中国は、国の統一を維持するだけでも、相 当のエネルギーを使っている。

 この国の自然は何と豊かなことか。そしてこの湿度。だから時々、ぱさぱさしたところに行きたくなる。この生真面目さも時にうっとしくなって。

 

 天野さんから葉書きがきていて、今はペルーに居るとのこと。インカの遺跡のある村に居るという。しばらく、半年から1年、この村で生活すると書いてあった。  早速この新聞を送ってやろう。

 

 僕の好きなレモングラスの芽が出てこない。寒さに弱い植物だから、移植したのも悪かったか。しかたない、都内の園芸店を回って捜してこなければ行けない。  移植できたのは半分、ハーブ園を整備するのはこれから。まだ四月だというのに、 ほんの20日間で雑草が3倍ぐらい大きくなっている。これからの季節、5~7月 と家を空けられない。6月になったら家に遊びにきて下さい。大方の整備も終わる でしょう。増えた苗は分けて上げられるでしょう。

 暇を見て、大型の園芸店を回って失った種類を補充した。レモングラスも3軒目で見つけたので嬉しい。新種も2.3植えた。雑草に埋もれていたミントは強い臭 いがしなくなっていたので焦った。雑草を取り、一週間したら臭いも復活していた。
 6月には、ミント類、セージ、タイム、株分けできます。

 

 次ぎの目的を作らねば行けない。5月は小野さんの別荘を造りなから考えよう。

 5月の連休に一つ企画を作ってから旅行に行ったが、これは少しやり過ぎだったか。山は今が一番いい季節なので欲ばったが、何やっているか分からない。僕はまだ成田の上空を旋回している気分。

 

 さて、秘密機関の長官から「まだきん斗雲は着かんぞ、どうなっているんじゃ。」

 と、少し怒りぎみな催促の電話。「閣下、何分彼達は天界の生物、下天のようには 参りません。時空間のスケールもちと違うと思われますし、もうしばらくお待ちい だだければきっと飛んで参ります。」と僕。汗がたらり。先に出たはずなのに、もしこなかったらと思うと、不安は除々に恐怖へと変わりつつある昨今である。  代わりに特大綿飴の製造も考えておかなくては・・・・

 

  調子がいいとは、

 絵に飽きると、庭にでて庭仕事をして、庭仕事に飽きると、新聞を作り、文章に疲 れると、風呂を直したりして、また独りに飽きると、アルバイトに行き、グルグル グル回ってくれればいい。気付くと何とはなしに仕事ができている。そうい言うの がいい。

 

 最後に

  今回は詩はなし、山崎さんと二人きり。

  次回は7月始め頃です。

  ではさらば!


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