思い出すまま - No104 / prev top next

思い出すまま


健康こそ一番の価値
 五十も半ばになり、僕の友人達(多くはアウトローを生きてきた連中)も歳を重ねるごとに、体が萎えて来ているのは悲しい。みんな若い頃、四十前半までは好き勝手にやっていて、時にメチャクチャと思われることも平気でやっていた。少々の常識は無視するのは当然、「それは芸術である。」とか勝手な理由付けをして・・・。
 そんな元気だった頃の姿を見ているだけに、四十半ばから、酒の量が減り始め、ここがあそこが痛いといい始め、仕事を長く休むようになり、大きな病気で入院する人間も増え、その落差を見るに付け暗澹る思いがする。久しぶりに会えばまず、悪い体の話が挨拶代りとなっている。
 ニュースで、「元気な団塊の世代の大量退職」「第二の人生の輝かしいスタート」「何十年か家族のため生活のため凍結していた、青春の復活」などと伝えられる昨今、僕らの友人は、反骨の青春を凍結せずに、そのまま最近までつっぱしって来てしまったのだが、体の衰えとともに、パトスも品切れとなってしまって、そのしょぼくれた姿はなんとも痛々しい。欝病とか、体ばかりか精神の病気まで病んでいたりもする。
 僕もその中の一人なのだが、今こそ「健康」という言葉の大切さを感じていることない。今ここで心とからだのバランスを取り戻すことが出来れば、うまく調整することが出来れば、今後二十年は第一線で活動出来るはずなのだが。これは今後の僕の課題でもあります。
 


故郷会津の夕日     
叔父の死(蕎麦名人、安らかに眠れ)
 九月の三十日、父の末弟の叔父が急死した。享年79才であった。昨年、ガンで胃を全部摘出した。その後の体力の消耗が激しく七月から再入院して、かなり悪いと聞いていたのだが、回復したとの連絡があり、ひと安心していた矢先の死の知らせであった。二三日体が重く、僕も少し落ち込んだ。
 叔父は退職後、趣味の世界に生き、全うした。第二の人生を蕎麦打ち道楽にかけていた。農家に蕎麦の契約栽培してもらい、大型冷蔵庫で玄そばを自分で管理し、もちろん自分で製粉したものだけしか使わないという徹底ぶりであった。蕎麦仲間とのそば打ち会、そば打ち教室の講師、料亭からの注文、親類縁者の宴席のそばを一手に引き受け、大忙しの毎日であった。元々酒飲みで、蕎麦仲間との酒を酌み交わしながらの蕎麦談義が何よりの楽しみであった。自分の好きな道、「蕎麦道楽」に生きたと言っていい。
 僕のそば打ちの師匠とは少しおこがましい。一度しか指導を受けていないし、何より僕は彼には逆立ちしても追いつかないならである。でも、甥っ子が蕎麦に関心を持ってくれただけで嬉しかったらしく、秋になると彼専用の玄蕎麦を送ってくれた。
 
 母が死んで、母の法事で顔を会わせた時「東京に帰る前に家に寄りなさい。」と、蕎麦打ち実地指導してくれることとなった。会津若松の自宅の蕎麦部屋で、彼の蕎麦打ちを間近で見ることとなった。見る間に彼は、1キロの蕎麦粉を厚さ1ミリ、約1.1メートル四方の真四角に延ばしてしまった。名人は正方形に延ばすとは聞いてはいたが、見るのは始めてである。
 伸し棒に1/4の生地をからめ、軽く叩き、広げて、生地全体を時計回りに1/4回転させ、隣の1/4の部分をからめまた叩く。その作業を次々と続けて行くと、初め円形に延ばされていた生地は次第に四角に変形して行った。なるほど、叩く、蕎麦打ちである。
 彼の延ばした生地はまるで、絹の布のようでさえあった。彼が生地の端から空気を入れた。ぽっこり盛り上がった部分が生地の中心に向かい、中心部で前後左右にゆらゆら揺れて止まった。蕎麦ではなくうどん粉の生地のように扱っているのである。もちろん繋ぎなど一切入れていない。いい蕎麦粉はうどん粉並のしなやかさを持っているのである。
 それを折り重ね切る。出来た麺は、二つ折できれいに並んでいた。1mm×1mm×50cm、の均一な麺となった。麺にできなかった部分が小指の先ほどしかなかった。
 
 「きれいに切りすぎちゃいけないよ、機械打ちと間違えるから。少し不揃いにしないと、手打ちだと分からないから。」と言って、蕎麦打ちは終わった。
 
 彼の蕎麦はとても上品な蕎麦でした。いわゆる一番粉だけ使った更科蕎麦ですが、その上品さは、蕎麦の生育から始まり、蕎麦の保存管理、製粉と、「蕎麦という食品のあらゆる部分への行き届いた神経」から来る上品さだと思います。そして、それは経済を媒介とした「仕事」ではなく、「道楽」で打っていたから出来たことだと思います。
 そのこだわり一つに、「蕎麦は会津盆地の肥えた日のよくあたる畑ではダメで、山間地の傾斜した痩せた土地でないといけない。」と土地までこだわっていた。そして、山間の南会津の農家に頼んで作ってもらっていた。
 そんなにさまざまな所にこだわっている人なのに、「伸し台はベニヤでもいい」とか「伸し棒は下水に使うエンビ管が使いやすい」とか言い出すので驚いてしまう。実際使ってみると、ベニヤのあのザラザラした表面が滑らずなかなかいい。また、エンビ管は軽くていいのである。
 また、振るいのメッシュは10ポイント単位で選んでいた。
 
 死んで十日程後に、お線香を上げに田舎に帰った。霊前で叔母といろいろ話したが、半分以上は蕎麦の話だった。僕にとっては、僕が田舎に帰るといつも母と喧嘩になることが長い間続いた。そんなときいつも割って入ってくれたのが、久(ひさし)叔父であった。その意味でも感謝している。
 安楽にお眠りください、蕎麦名人殿。
 
追伸
 叔父が最晩年完成させた「十割生そばの冷凍保存」は、恐らくこれから静かに広まって行くものと思います。西暦二千年前後から、料亭への注文品や親戚にクール便で送ったりしながら、実験を重ね完成させたものです。「十割生そばの冷凍保存は二千年はじめに渡部久が完成させた。」と一寸公なこの新聞に明記しておきます。



尾瀬の登山口あたりの紅葉    
放浪癖
 時間と暇があれば、車でフラフラする僕の放浪癖は今でも健在である。田舎に帰り、会津若松の叔父の家に線香を上げ、その足で喜多方によりラーメンを食べ、米沢に向かった。
 熱塩加納、日中を過ぎると県境、この道で山形に入るのは始めてである。僕の高校時代の友人の父親が喜多方の市長をやっていて、この道の開通に情熱を燃やしていたことなど思い出したので通ってみたかった。古くは伊達政宗が、当時米沢の領主になったばかりで、この道を通り会津攻略を行なったが、大敗北をしている。当時、会津は東北の覇権をめぐる戦略拠点で、その後、彼は福島まわりの迂回路通ることとなった。今も昔も、福島市方面から米沢に廻わる方がメインコースです。
 米沢の駅まで行って引き返してきた。
 
 その後、喜多方から蕎麦で町興しをしている山都(やまと)町を通り、実家のある西会津町の奥川地区に出た。飯豊連峰の裾野を通る山路である。ここも始めて通る道である。ここでいい夕日に出会うことが出来た。
 東京への帰り道も、檜枝岐から尾瀬の登山口、奥只見湖を抜け新潟県の魚沼に出た。この道も始めてである。以前、この道を通ろうと思っていたのだが、前日中越地震があり、新潟に抜けることを断念したことがあった。尾瀬の入り口あたりの峠で紅葉をいち早く見ることが出来た。
 
 いつも同じ道を通るなんてばかばかしい。寄り道で何かいいものに出会ったら大儲けである。人生もそうでありたいと思っている。



   帰京の途中で見つけた路傍の花 
 
いじめ・・・差別
 最近小学生が「いじめ」を原因に自殺することが何件か続いて、大きな話題になっている。「いじめ」ねえ、やり方が陰湿なんです、日本的なおかしな現象です。
 僕の小さいかった頃も、「いじめ」そのものはあった、僕らも体験してきた。しかし、自殺するほどの深刻ないじめがあっただろか。高校生ならともかく、小学生が自殺するようなことはなかったと思う。その代わり、差別はあった。「部落」や「在日朝鮮人」に対する差別は大きな社会問題としてあった。
 ここ三四十年の間に変わったこと。民族的、身分制による差別は確かに表面的にはなくなった。非常に少なくなったと思える。きっとその分、問題は陰湿な内向的「いじめ」が増えたのではないだろか。
 
 弱い人間が些細な理由で弱いものを集団で疎外する。もちろん「いじめられる人」には同情するが、僕はそれ以上に「いじめる人間達」のほうが心配になってくる。「いじめ」は自分の抱えるストレスを自分で処理できずに他人に転化する行為に他ならないからである。問題はいつまで経っても解決されず、未処理に残っているからである。現代版の村八分ですが、村社会の抱える問題は未処理のままだからです。
 
 「いじめ」はなくならないのかも知れない。身分差別や民族差別は平等という建て前の中で、あるは被差別者の社会的地位の向上で見えなくなったが、「差別することによって己の立場を確保」しようとする心の構造はあまり変わっていない。区別し差別しなければ社会の中で自分を保てない、弱い人間の悲しい現実である。
 
 昔、七十年代、在日の人に対する暴行事件が時々報道され、嫌でしたよ。戦前の体罰主義が僕らの若い頃は残っていた。すぐにゴツンとやられたし、グループでいじめることもあったし、やられたこともある。それから社会は大きく変わった。でも人間の中身は変わっていないから、殴る蹴るの代わりに言葉で殴ったり蹴ったりするようになった。ということでしょうか。
 あまり悲観的に考えないことも大切です。人と人の素敵な関係がそんなことより圧倒的に多いので、この世界は崩壊せず存続しているのですから。