-牧野植物図鑑-
鷺草伝説
衾ふすまの不思議三つござる 曲り松 鷺草さぎそうに 竹の二股
大正のころまで、目黒でもところどころに見られた麦畑。収穫時ともなると、クルリ棒で麦の穂を打ちながら歌われた麦打ち歌が、遠く近く聞かれたものである。
この里謡に歌われている鷺草とは、ラン科の多年草で、高さ約30㎝。夏になると、すらりと伸びた細い茎の頃に、空を舞う白鷺にも似た、純白の小さな花を二、三個つける。その姿の可憐(かれん)さ、不思議さから幾つかの説話が生まれ、今日にまで語り伝えられている。
悲劇のヒロイン 常盤姫
世はまさに戦国時代。各地の大名が兵を起こし、群雄割拠の様相を呈していたころのこと。
世田谷から衾村、碑文谷郷一帯は、世田谷城主吉良頼康の支配下にあった。頼康は、奥沢城主大平出羽守の娘常盤姫を側室として迎えた。やがて、常盤は子をみごもったため、頼康はことのほか常盤をいつくしむようになった。
血筋を絶やしてはならない大名のしきたりに従って、頼康には、常盤のほかに12人の側室がいた。
彼女たちは、頼康を一人占めにする常盤をねたみ、「常盤様のお子は、殿のお子かどうか疑わしい」などと、まことしやかに頼康につげ口し、常盤への愛情を妨げようとたくらんだ。
常盤の悪いうわさを、頼康は否定しながらも、心の中にはいつの間にかどす黒い疑惑の霧がたち込めていった。自然と常盤へも冷たい仕打ちをするようになった。
とりなしてくれる者も無く、悲しみに暮れた常盤は、「いっそ死んで、身の潔白の証しにしよう」とまで思いつめた。奥沢城の父にあてて遺書をしたためると、小さいころからかわいがって、輿(こし)入れの際にも一緒に連れて来た、一羽の白鷺(しらさぎ)の足に結びつけ、奥沢の方角へ放った。
主人のただならぬ様子をさとったかのように、白鷺は奥沢城目指してまっしぐらに飛び去った。ちょうどそのころ、衾村で狩りをしていた頼康は、この白鷺を見つけ射落としてしまった。みると、足に何やら結びつけてある。不審に思って開いてみると、姫から父へ覚悟の自殺を報じた文(ふみ)であった。
驚いた頼康は、急ぎ城に帰ったが、時すでに遅く常盤は自害し果てた後であった。傍らには、死産の男の子の姿があった。
疑いは晴れたが、もう常盤も子も戻っては来ない。深く後悔した頼康は、せめてもの償いにふたりの霊を慰めようと、領内の駒留八幡宮に若宮と弁財天を建てて祭ったのである。
一方、使命半ばにして倒れた白鷺は、よほど無念だったのか、その地に鷺の飛翔する姿の花を咲かせる草になったという。
白鷺 密書を運ぶ
いつのころか、吉良氏の世田谷城が敵軍に包囲されたことがあった。奥沢城主大平出羽守に援軍を頼みたいが、蟻(あり)のはい出るすきもない。そこで、日ごろ飼い慣らしておいた一羽の白鷺に、密書を結びつけて放った。
しかし、白鷺はあんまり一生懸命に飛んだので、奥沢城の近くまで来ながら力尽きて落ちてしまった。以来、その地に鷺草が群れ咲くようになったという。
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