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風が吹き 鷺草のみな飛ぶが如  高浜 虚子


鷺草のおくれ咲きしも翔けそろふ 水原秋桜子










さぎそう            〔らん料〕
Pecteilis radiata Rafin. (=Habenaria radiata Spreng.)

 陽の当る湿地原野にはえる多年生草本で往々観賞用にも栽培する。地下に径1cm内外の楕円形の根があり、上方に細かい根茎を立てる。茎の着点附近からは細根ならびに先端に小球のある長いつる枝を出している。葉は互生して少し下部に集まり、広線形で開出または斜上し、先端は尖り、基部は柄がなくて茎を抱きさやになっている。8月頃、高さ30~40cmの茎を1本直立に出し、先に1~4の花をつける。花は純白で径3cmに近く、優美で純潔な感がある。外花被3片は緑色、卵状皮針形で尖り平開する。白色の内花被2片は平行して立って上部に向かい、卵形で緑に細かいきょ歯がある。唇弁は大きく3深裂し、中裂片は舌状全縁、側裂片は広く扇形に展開して多数の細かい切目が入り、後部には長い距が重れている。やくは直立し基部は唇弁の附根近くの両側に著しく前方に突出ている。
〔日本名〕鷺草。花容が白鷲に似ているのでいう。
 -牧野植物図鑑-














鷺草伝説




  衾ふすまの不思議三つござる 曲り松 鷺草さぎそうに 竹の二股

 大正のころまで、目黒でもところどころに見られた麦畑。収穫時ともなると、クルリ棒で麦の穂を打ちながら歌われた麦打ち歌が、遠く近く聞かれたものである。
 この里謡に歌われている鷺草とは、ラン科の多年草で、高さ約30㎝。夏になると、すらりと伸びた細い茎の頃に、空を舞う白鷺にも似た、純白の小さな花を二、三個つける。その姿の可憐(かれん)さ、不思議さから幾つかの説話が生まれ、今日にまで語り伝えられている。




悲劇のヒロイン 常盤姫

 世はまさに戦国時代。各地の大名が兵を起こし、群雄割拠の様相を呈していたころのこと。

 世田谷から衾村、碑文谷郷一帯は、世田谷城主吉良頼康の支配下にあった。頼康は、奥沢城主大平出羽守の娘常盤姫を側室として迎えた。やがて、常盤は子をみごもったため、頼康はことのほか常盤をいつくしむようになった。

 血筋を絶やしてはならない大名のしきたりに従って、頼康には、常盤のほかに12人の側室がいた。

 彼女たちは、頼康を一人占めにする常盤をねたみ、「常盤様のお子は、殿のお子かどうか疑わしい」などと、まことしやかに頼康につげ口し、常盤への愛情を妨げようとたくらんだ。

 常盤の悪いうわさを、頼康は否定しながらも、心の中にはいつの間にかどす黒い疑惑の霧がたち込めていった。自然と常盤へも冷たい仕打ちをするようになった。

 とりなしてくれる者も無く、悲しみに暮れた常盤は、「いっそ死んで、身の潔白の証しにしよう」とまで思いつめた。奥沢城の父にあてて遺書をしたためると、小さいころからかわいがって、輿(こし)入れの際にも一緒に連れて来た、一羽の白鷺(しらさぎ)の足に結びつけ、奥沢の方角へ放った。

 主人のただならぬ様子をさとったかのように、白鷺は奥沢城目指してまっしぐらに飛び去った。ちょうどそのころ、衾村で狩りをしていた頼康は、この白鷺を見つけ射落としてしまった。みると、足に何やら結びつけてある。不審に思って開いてみると、姫から父へ覚悟の自殺を報じた文(ふみ)であった。

 驚いた頼康は、急ぎ城に帰ったが、時すでに遅く常盤は自害し果てた後であった。傍らには、死産の男の子の姿があった。
 疑いは晴れたが、もう常盤も子も戻っては来ない。深く後悔した頼康は、せめてもの償いにふたりの霊を慰めようと、領内の駒留八幡宮に若宮と弁財天を建てて祭ったのである。

 一方、使命半ばにして倒れた白鷺は、よほど無念だったのか、その地に鷺の飛翔する姿の花を咲かせる草になったという。



白鷺 密書を運ぶ

 いつのころか、吉良氏の世田谷城が敵軍に包囲されたことがあった。奥沢城主大平出羽守に援軍を頼みたいが、蟻(あり)のはい出るすきもない。そこで、日ごろ飼い慣らしておいた一羽の白鷺に、密書を結びつけて放った。

 しかし、白鷺はあんまり一生懸命に飛んだので、奥沢城の近くまで来ながら力尽きて落ちてしまった。以来、その地に鷺草が群れ咲くようになったという。


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