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 右耳強化月間
 -仕上げはツィゴイネルワイゼンで? いやいや、やはり最後は虫の音、風の声、自然の音-

  三月に耳鳴りがひどくなり、右耳が全く聞こえていないことが判った。左耳に耳栓をしたら、少しずつ右耳が聞こえるようになり耳鳴りも弱まった。しかし、ある程度までは良くなるのだが耳鳴りは消えない。しばらく放っておくとまた耳鳴りが大きくなったりする。どうも、耳の左右のバランスが悪く、自然と利き耳だけで聞き取ることが当たり前となり、使わない耳がどんどん弱くなるらしいことが判ってきた。
 昔のこと思い出してみたが、東京にいる頃は騒音が大きく耳鳴りのことなど気づかなかったが、十年以上も前にこちらに来るようになり、物静かな夜は耳鳴りが微かにしていることに初めて気付いたことは覚えている。それ以前の昔はよく覚えていない。気になり始めたのはここに三年である。問題は、右耳の弱さが生まれつきかその後の習慣からかである。
 耳鳴りの解消法は判ったが、完全解消とはなかなか行
かない。五月にその解消法をやっていたら、突然大きな
目眩がした。どうも奥の三半規管も不調になっているらし
い。耳が聞こえにくいと言う機能だけではなく、耳にまつわ
る全てのものが、耳の皮膚感覚、言語処理中枢、etc.etc.
が不調になっているらしい。素人治療は怖いこともあり、
また少し良くなると忘れてしまい、耳鳴りが大きくなと気づく
と言うありさまであった。
クマゼミの蝉時雨が降り注ぐ木陰。
アブラゼミやミンミンゼミは時折しか聞こえない、
ここ相模湖周辺もクマゼミに占領されてしまった。
確実に温暖化は進行している。この下したでの
右耳の訓練は大いにプラスとなった。


蝉時雨 クマがアブラを 食べ尽くす 
  七月に入り、また耳鳴りがするので、仕事もとぎれがちになり、時間もあるので、毎日欠かさず何時間か耳栓をして右耳だけで過ごすようにした。人間が出す生活音を聞き取るまでは半日もあれば直り、耳鳴りも気にならない程度に収まるのだが、それ以上となるとなかなかすぐには良くならない。しかし、毎日欠かさずやれば少しずつだが良くはなる。目標は左耳と同程度、梢をゆらす風の音、虫の羽音まで聞き取る耳にすること。やれるだけやってみようと思った。
 ツィゴイネルワイゼンなどのクラッシクCDを何度も聞いたらすこぶる聞き取る音質が良くなった。これでも駄目、左耳ではクマゼミがうるさく聞こえているのに、全く聞こえない。高周波の声はまた別のようだ。はじめ低周波の日暮らしから聞こえ始め、ミンミンゼミ、アブラゼミそしてクマゼミと二週間かけ少しづつ聞き取ることがでるようになってきた。
 勿体無いことだ、今まで、虫の音や風の音の半分しか聞いてこなかったとは。この調子だと、今年は秋口の虫達の大コンサートを何十年ぶりにステレオで聞けそうだ。

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 小泉さん

 小泉さん、面白いですね。僕はアメリカよりの政策や靖国参拝とかタカ派の政策以外についてはとても好きなタイプの政治家です。芸術に造詣が深いし、嘘つかないし、何より「利権」と言う裏が少ない。自分の信念を曲げず解散総選挙まで行ってしまった。

 その結果はこの新聞がでる頃出るので判りませんが、自民党は四年前に終わっていたのだと思います。小泉さんを持ち出さざるを得なかったこと自体が、末期症状だったのだと思います。小泉さんのおかげで四年伸びたたけのような気がするのですが。僕の希望かも知れないが。自民党は分裂して新たに再出発すればいい。それでやっと、十二年前から始まった、戦後の五十五年体制と言う日本の政治の再編が完了する。と思うからです。

 小泉さんの改革とイギリスのサッチャーさんやアメリカのレーガンの改革と比較されるけど、構造的に無理なんじゃないかな、イギリスもアメリカもそれ以前は労働党、民主党政権で、共和党、保守党も利権から離れていた。日本の場合、細川、羽田政権が四五年続けば一気に政治が流動化し、改革も進行したのだが、短命で再編したのは野党だけで、自民党はずうっとさまざまな利権の真っただ中にいた。小泉さんの政策の多くは民主党が提案していたものですし、改革を進めれば進めるほど自己矛盾に陥ったと言うことだと思います。小泉さんの派閥は利権とは遠い派閥でしたが。

 彼の本当の狙いは、自民党を解体して純保守政権を作ることかも知れません。今回政権を取れないようなら、民主党はもう一度解党して出直したほうがいいかも知れません。 石原真太郎といっしょで、あのタカ派ぶりどうにかなりませんかね、そうしたら応援するのですが。陽の当たる戦後を歩いてきた人々だから、日陰の世界は見えないか。

 党儀拘束とかどうして何もかも議員を縛るのでしょうかねえ。首班指名とか予算案とか安全保障とか党儀拘束は出来るだけ限定して、一般法案は党に関係なく賛否を問えばいいのに。郵政法案など、基本的には野党のほうに賛成者が多いのにね。役人主導の政治から政治家そして有権者主導の政治にもっとならないとね。

 そして余談

 サワさんの中国レポート読んでいて、なるほどと思った。世界から見たら、韓国も中国も同じ文化圏なんです。いがみ合う必要なんかないでしょう。コミュニケーション不足です。政治的な近親憎悪です。
 それと日本人はどうして「天皇の戦争責任」を問題としないのでしょうかね。あれだけの被害を出したのです。しかも負け戦です。朝鮮半島や中国やアメリカとの関係ではなく、日本人自身の問題として、政治的な責任のない現在の「象徴天皇」ならともかく、以前は軍の最高責任者が天皇だったのですから。死刑にしろとか天皇制をなくせと言っているわけではありません。過去の日本の歴史に照らしてみても、これだけの事件のまっただ中にいた天皇が退位しなかった例はなかった思うのですが。「天皇の戦争責任」が議論にならなかったことが、僕は先の大戦を日本人が政治的に総括できていない象徴のように思います。アメリカにはっきりとものが言えないことや、半島や中国の人々と和解できない日本人側の原因だと思うのですが。うまくアメリカに政治的に使われてしまったと思います。アメリカは核兵器を使ったり縦断爆撃をやった、これは人道的にやりすぎです。「天皇の戦争責任」を認めていれば、政治家や軍のトップの責任論が議論されるA級戦犯問題なんか起こらないと思うのですが。
 サワさんの報告のように、中国は多くのぬきさしならぬ国内問題を抱えています。韓国は分断国家という緊張関係の中に一貫してあり、北の復興は日本の援助なしにはありないのです。日本についての情報が良く伝わらないとか、政治家が反日感情をうまく利用してきたのは事実です。しかし、利用される材料を与えてきたのは、日本の戦争の総括の甘さです。出来たら、そんなにひねくれずに日本の進んだ制度や法律を素直に受け入れたい、ヨーロッパやアメリカより日本の方式のほうが中国に合っているからと言うのが、中国の先の見える人の本音じゃないでしょうか。そんな気がするのですが。社会風土も政治風土も近いのですよ。おそらく二十一世紀は経済的には東アジア共同体といった方向に進むでしょう。政治的な凝りは少しでもとってゆくのが、大人の成熟した国のやりかただと思いますが。

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標高千メートルぐらいの山で見つけた赤とんぼ。
八月半ば頃、これからゆっくり野に下る。
 義経と頼朝

 NHKの「義経」を良く見ている。原作の宮尾登美子さんの頼朝の描写がしっかりしているので見れるからです。頼朝はやはりすごい政治家ですよ。義経の一回りも二回りも大きな人間です。

 ドラマでは関東武士団の首領クラスしか出てこなくて、その郎党や家来の一般武士の平素の正確は出てこないから分からないが、秀吉の刀狩り以前は武士といっても半分農民なんです。当時の朝廷の軍事部門に官職を持った源氏や平氏や藤原氏と行った軍事貴族は武士と言えるかも知れないが、地方官の地方の豪族の長はともかく、その家臣は農民なのです。彼等が武装したのは、自分の土地を守るためです。後世に「武士道」としてきらびやかに着色されたものではなかったのです。頼朝はその浪人生活の中で、地方武士、関東の豪族の実情を良く学習したのです。平氏の白拍子なども連れた何とも風流な都の軍隊に比べ、源氏の軍隊は、都の人間には理解できない土の臭いのする方言の飛び交うまさを、今表現することは難しいが、武具や衣装は武士であっても、見るからに関東の農民と分かる軍でなかったと僕は想像する。首領クラスでも、関東訛りの強い言葉で、和歌の一つも詠めないようでは、頼朝の規制がなくとも、都の公家やまして朝廷に接近するなど思いもよらないことだったと思う。均一化された今日、都と鄙の文化的、心理的な隔たりを理解することは難しくなりつつあります。

 頼朝は武士は団結すれば強いが、孤立したらとても弱い存在だとよくしっていたのです。地方武士の団結を維持するためには何が必要かと言うことで組織作りをするのです。それに成功すれば、平氏はおろか朝廷とも太刀打ち出ると考えたのです。一方、義経の英雄的な行動は、農民兵である一般武士にとってはついて行けなかったのだと思います。義経がいなくても彼の英雄的行動がなくても、頼朝が鎌倉で関東の武士達の心情を捕まえ続ける限り、いったん信望を失った平氏は没落していったのだと思います。

 ただ政権が確立していない時期、義経がその辺を理解して頼朝に忠誠を誓い続けたしても、出家でもすれば別だけど、武家源氏の直系兄弟は戦わざるを得なかったと思います。時代が下れば身の処し方はいろいろ有ったかも知れないが、武士が政権をとると言う前代未聞のこの時期、分裂の可能性は即政権崩壊につながり、極力排除しなければならなかったからです。

 この時期、地方豪族の「姓」の多くが「源」「平」「藤原」と言った名門の姓に変わっていた。彼等が武装化したと同時に、先祖が開墾開発した土地を守るべく、地方官として下ってきた名門貴族の末孫と姻戚関係結ぶなり、主従関係を結ぶなりして、中央の大荘園貴族、受領と呼ばれた国司などから土地を守ろうとしたためです。同姓がやたらに増えてしまったので、地名で呼ぶようになったのが、現在の「名字」の起源です。

 余談になりますが、その後「名字」は武家政権の成長とともに一般化し定着した。更に、庶民も使うようになり、戦国期の終わり頃には七割の人々が「苗字(名字)」を持つようになり、その数一万種ぐらい。江戸時代には表向きは庶民の苗字使用は禁止されたが、苗字は明治まで温存され、明治の苗(名)字使用令でまた増え、現在三十万種ぐらいあります。これが世界に類を見ないfamily-name多彩国になった経緯です。family-nameは一族のルーツを示すものとして大切にされた来た諸外国と違って、きっと、異民族との葛藤の少ない同質民族であるという特殊性が、family-nameの便宜的な使用(地方豪族が中央名門の姓を名乗るようになったことや、苗(名)字使用が庶民に普及したこと)を促したのだと思います。もし中央貴族と地方豪族が民族的に違ったら地方豪族は自分の姓を捨て源氏や平氏と名のりはしないし、制服王朝なら領主は地域の連帯のために農民に自分の苗字を与えるなどということはけしてやらない。韓国のfamily-nameの数のなんと千倍、十倍の人口の中国の十倍もあるのです。

花とアブ
 またまた余談ですが、朝鮮半島でも朝鮮王朝の頃には同族化が進んで、支配貴族である両班ヤンパンがふえ、厳しい身分を分ける法律はあったのですが、多少でも両班と縁戚の有るものが金とか朴とか名のったので、王朝の終盤には人口の半分以上にもなった。「両班同士の結婚でなければ子供は両班と認めない」いう法律はあったが、子供に同じ姓を与えればそれだけでふえますし、法律には裏がありますしね。貴族は納税義務がなかったので、これは深刻な農民層の貧困化と王朝の財政難を生むことになった。両班と言ってもそのほとんどが庶民と同じ生活をしていたのですが。源氏や平氏が増えて困った状況が半島では庶民レベルで起こっていたのです。限定された貴族の姓を誰も彼もが名のり始めた朝鮮半島と、さらに少数の姓に集中たが故、一族のルーツを表すという本来の意味を失い、狭い家単位の名称を爆発的に増やした日本との間に、大きな違いはないような気がするのですが、僕は。

 ( 氏=「古代の豪族が自ら名のっていた名前」、姓かばね、せい=「律令体制下で天皇が豪族や庶民に与えた名前」、名字=「中世、主に地名を一族の名前とした呼び名」、苗字=「近世、土地から離れた武士がその出身を表すものとして使われ始めた名前」とそれぞれ皆別の意味があるのですが、ここでは広い意味でfamily-nameとし区別しませんでした。 )

 武士の土地への執着が武士の本質です。主従関係はそのための約束事でしかないのです。農村の名主である武士とそこの農民との間に一線はなく運命共同体だったのです。ここがヨーロッパの騎士と農民の間には一線があって違うところです。おそらくそこには征服した民族が征服した民族を支配するという民族的違いが身分制度の根にあるのでしょう。「主君に忠誠を誓い続ける」とか、「責任をとって腹を切る」とかいった武士道なるものは、彼等が支配層となり、村を離れ行政官と言うサラリーマンなっなった後に形づけられた倫理であるし、美学なのです。だから、戦国時代までは、主君が自分の土地を保護してくれなければ当然新しい主君を探すことは決して恥ずかしいことでも何でもなかったし、裏切りは当然の行動だったのです。

 「武士道」の歴史は面白い。古代の「もののふ」としての武士、中世の武士、近世の武士、帝国陸軍海軍に残った武士道、企業戦士としての武士道とね。小泉さんもその武士の気風を持った宰相なんだけどね。ちなみに朝鮮半島の武士道は「花朗徒(ファランド)」と呼ばれ、戦士であると同時にいっぱしの文化人であることが要求されるのです。日本のように泥くさくないのです。文化先進国としての文化の香りが漂うのです。現代の学生運動や韓国軍に生きているそうです。
 
 自分に喝を
 画家は廃業、製作も中断はいいけど、人間を廃業、中断するわけには来ません。只の人間ですから、重力に縛り付けられ、人間社会の緩いがなかなかしぶといしがらみに縛り付け、身動きの取れない我身を泣き叫ぶ負け犬ごとしと言うのが実体です。
 でも、少なくとも心は、百万光年の宇宙を彼方を飛び交う宇宙人のごとく、また、幾千年幾万年続く人類の歴史に輝く旅人のごとく、自由であり続けたいものと願っています。そんな柔軟な心から、重力も人間社会のしがらみをうまく処理する知恵も生まれてくるのだと信じています。
 改めて、自分の心に喝を入れなくてはなりません。
 

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