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( 文章は雛芥子の写真の下にあります。)

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大ケヤキは村の守り神

 頑張らなくちゃ
 世の中駄目な人間も多いけど、すごい人もたくさんいる。僕も頑張らなくちゃ。NHKのTV見ていたら、北条早雲のことやっていて、国盗り物語をはじめたのが、56才。それまでは無名の武将。人生50年時代の56才です。人生80年の現代なら、単純計算すると、(56÷50)×80=89.6才となる。すごいですね。お墓に入るまで人生分からないと言うことです。
 早雲はいいね。名前が良い、彼は詩人ですね。後世の武将のように、相手が腐れかけた室町体制だから、手練手管の汚さがあまり見えてこない。戦国時代の始まりの時期で、「世直し」の純粋さを維持することができたことは幸せだったのだろと思う。
 さて僕は、次は何をしましょうか。
 ちなみにこの計算法、昔の人と比較するとき使うと分かりやすい。昔の元服を15才とすれば、(15÷50)×80=24才。今なら結構年です。今の30才は、(30÷80)×50=18.75才。大人として行動できるようになるのはこの年からです。昔も二十歳頃からでしょう、実質的に大人となるのは。昔も今もこう計算すれば同じと分かる。
 僕は普通の日本人のような生き方をしてこなかったけど、基本的なメンタルなところでは同じだと思う。社会の中で一定の存在感を見つけだすのは三十才からだと思う。江戸時代に比べたら、大人になるための情報量は十倍百倍と増えているのです。それを自分独自の判断で整理して行動できるようになるは、三十才ぐらいからでしょう。
 

大朴の木 ・上野原から小菅に抜ける山道の途中の鎮守の森

 日中・日韓について
 四月の反日デモから始まって、デモは納まっても次から次と問題が起こってくる。第二次大戦終戦60年で中国、韓国は盛り上がっているし、日本はタカ派の小泉政権。そこにフィリピンで亡霊のように旧日本兵が出てくる。まるで、芝居を見てるような演出効果である。一番盛り上がるのは、八月中旬の敗戦記念日頃か、それとも九月の国連総会の頃か。なかなか先の読めないストーリー。
 はっきりしていることは、口喧嘩以上の喧嘩は三国ともできないと言うこと。軍艦を出しとか、昔の方式を使ったらとんでもないことになると言うことである。お互いの経済的な依存度強くて、経済危機にでも発展したら、それこそ三国とも存亡の危機にさらされる言う、まあ夫婦喧嘩の時限にまで近くなってしまったと言うことです。
 中国も韓国も日本も政権維持のためナショナリズムを意識的に使っている。国家という概念が薄れるて行くのが、二十一世紀世界です。古いのだと思いますよ。今大切なのは、国際的スタンダートになるべき政治哲学です。GHQの甘い(僕は天皇の戦争責任をごまかし、日本占領を米ソ対立に利用した。僕は天皇制を廃止することには同意しないけど、退位するとかなんらかの形でもっと明確に、最高権力者の責任を明確すべきだったと思う。)、占領政策の付けを払わされるのは、老人国家になりつつある日本かも知れませんよ。

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藤野町の山道で見つけた野仏・千手観音

 やませ(山背)
 五月に結構寒い日が続いた。これが七月なら「山背」と呼ぶ東北の海風が吹いたからである。関東以北は気温が十度ぐらい下がってしまう。今年は行きが多く北国では長く残雪が残っていた。オホーツクの流氷もなかなか消えない。こうなるとオホーツクの高気圧が強くなりこの風を太平洋側から吹き寄せることとなる。気象予想では、南の夏の高気圧とのぶつかり合いが、長く雨の多い梅雨になりそうだということである。
 これを書いている今は六月初め、先のことが分からないが、梅雨の先の寒い夏の記憶が蘇ってくる。確か十二年前だったと思う、初めてのヨーロッパから帰ってきたら、あちらは晴れの続く一年で最も美しい六月だったのに、日本は雨ばかり。夏になっても梅雨は明けない。友人の請け負った海の家は大赤字、寒い八月の展覧会。そして勝手ない大冷害。タイ米を食べることとなった。
 そして「山背」と言えば、宮沢賢治の世界。童話作家として彼は有名だが生前彼が最も力を注いだのはこの山背対策。独学で農業を学び、農民に農業の技術指導をした。独自の肥料計画書作り、村野辻に立って農民に解いた、まるで日蓮の辻説法。それが評判となり、過労の中で病死した。「寒い夏はおろおろ歩き」の詩の一説は、何の装飾もない彼のありのままの姿だったのです。今は外米を金で変えるけど、何千年と北の人々はこの山背に泣いてきたのです。
 さて今年はどうなるか。
 
 東京ホーラム・・・そして昔
 有楽町と東京駅の間にあった都庁が壊され、東京ホーラムという会議場や、大ホール、展示会場を備えた建物ができて久しい。年に何度かここに仕事に行く。東京駅側のとなりが東京ビルディング。今、新しく高層ビルに変わりつつある。ここは僕とって青春そのものなのです。汚い格好でここの界隈を徘徊していたのです。
 71年12月、川本さん達水俣病患者のグループが、東京ビルディングにあったチッソ本社前に座り込んだのだった。「人手が必要」と、公害問題を扱っていた大学のグループに支援要請があり、顔を出したのが運のつき。「これだ」と僕はその支援のグループの中に飛び込んでしまった。ビルの出入り口にテントを張り、座り込みは一年半ぐらい続いた。長引くにしたがって、年上の人たちや、熊本から上京していた支援の人々は帰り、僕ら東京近郊の学生達が座り込みを支える最前線に立つこととなった。
 荻窪に借家を借り、患者さんに宿舎とし、新橋の映画の事務所が座り込み事務所とする体制も整えられた。テントは肉体派、宿舎は女性を中心に、事務所は理屈派と区分けも自然とできた。僕は事務所を中心に活動することになった、徹夜でチラシを謄写版で擦り、東京駅やテント周辺を足早に急ぐ、出勤中のサラリーマンに配り、そして朝飯。昼は患者さん先頭に四階のチッソ本社に交渉に行く。チッソは入り口に鉄格子で門を作り、水俣や、五井から集められたと労働者がピケを張っていた。時に殴り合いになったりする。夕方は、都内の駅前でカンパ活動。そのまい間に事務所の隙間にゴロ寝。
 よく都庁の地下の食堂で食事をしたのです。空襲を免れた旧都庁はまさに迷路のようでした。金が無い時は組合がやっている職員食堂。金があるときは少し良い食堂。そしてガードしたにある安い店などなど。一カ月ぐらい風呂に入らないのが当たり前。風邪を引いたり、疲れがひどくなると誰かのアパートや、荻窪の借家で精気を取り戻す。
 楽しかったのです。何もかもが新鮮で。今考えるとですが。もちろん当時は「楽しい」と感じるより、解決しなけれはならないことが山ほどあり、闇の中をもがいていただけですが。僕は壁にぶつかったり、心の整理が着かなくなると、突然行方不明になり房総半島を放浪したり、ふらっと奈良に行ったり、周囲のもの心配させた。そういう無責任になれない奴は、運動の高揚期はまだいいだが、低迷期に入ると、一気に未処理の内的問題が浮き上がり、精神的におかしくなり病院の世話になったりた。時に自殺するものいた。当時は僕自身苦しかったことが多かったと記憶している。しかし、今考えると、その根底にやめられない楽しさ、魅きつけられるものがあったのだと思う。
 当時の学生運動には会津にいる頃から、何か魅かれるものがあって東京にいって何が起こっているのか知りたかったのですが。いざ大学に入ってみると、理屈ぽくて、71年頃には過激になりすぎ、ついて行けない。宮内という大学の友達と、公害問題を扱う会を作ったら、同じように感じる人が三十人ぐらい集まってしまった。そのまま「水俣病告発する会」と名前を変えて、僕と何人かがどっぷりとはまり込んでしまった。
 なぜ水俣だったかと言うと。革命とか屁理屈を言わなかったこと。被害者と加害者が明確で、僕らの立場も取りやすかったこと。体の不自由な人の運動ですから行動は穏やかなのですが、出てくる言葉の激しさとのアンバランスに衝撃を受けたこと。支援活動している人がみんな個性的で、学生運動に限界を感じていた人々、芸術派の人も多かったこと。告発する会は大人の運動と当時言われていたのです。
 僕にとっての水俣は、僕の自分捜しの旅のため「患者さんのため行動しろ」と言うことを使わせてもらったのです。人のために働けると言うことは「その人が幸せだから」できることです。不幸な人は自分のことだけで精一杯で、そんな余裕ができていない人のことだと思います。
苦しかりし 我が青春も 内に輝やけり /  まもる 

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雨に煙る吊り橋 ・丹波村

 ジーコのサッカー
 来年のドイツワールトカップに日本も行けることになって、日本中が盛り上がっている。日本チームをジーコが指揮を取るようになって三年、やっとジーコのサッカーが見えつつあるのかも知れない。初め彼が監督になることには疑問視されてきた。彼も技術的なコーチ、監督は彼のお兄さんと云うことで引き受けたのだったが、いつのまに書かれがずっーっと監督になることになった。
 世界的な選手なのに、初め日本に来たときには、現役選手兼コーチとして日本にやってきてから、日本代表を引き入るようになった今でも、サッカーに対する謙虚さひたむきさは変わらない。言葉の問題もあるが、何時でもどんなときでも浮ついたようなコメントはまったく無い。今でも一戦士なんです。あれには恐れ入る。すごい。そんな精神的なものより僕が感動しているのは、彼がヨーロッパのサッカーではなく、自由な南米のサッカーを日本に導入したことです。だから見てておもしろいのです。
 前回のワールドカップでのトリシエはヨーロッパの組織サッカー、理論サッカーで指揮を取った。でも断然南米サッカーのほうがおもしろい。個性を大事にし、有機的に守りから攻撃に移る。何が起こるか分からない。
 やっとジーコもアジアで勝つことができた。これからでしょうね。日本の選手とともに、ジーコも監督として認められるかどうか。ここ十五年強くなった。そして面白くなった。

  雨の峠道で見つけた白い花 ・道志村

 青木さんの死
 五月の末に寒川の叔母が死んだ、葬式が六月の二日、叔母の姓が青木。それから一週間もしないのに、藤野の青木さんが死んだと電話が入った。偶然ということは分かるが僕にてっは同じ青木姓なので驚いた。藤野の青木さんは五十一才。持病がアルトは聞いていない。真面目にこつこつやるタイプ、無茶をやる人ではない。いまだに狐に摘まれた気分である。
 僕が相模湖界隈に住むようになったのは、十五年ほど前頃、「砂の曼陀羅」始まる、盛んだった数々のイベントだった。彼はその中心的メンバーだった。後から聞くとその頃引っ越したばかりだったと云う。もうこの界隈に何十年もいる主かと思った。赤や黄色の縞柄のズボンをはき、宴がたけなわになると決まって、南米産だったかな今は分からないが、太鼓をたたき出す。そしてイベントが終わり、次の日行くと、雨の中、ビニール袋片手に後片づけるをしていた。
 彼は数々の芸術家の主催するイベントにはなくてはならない人物だったのである。いつごろか、仕事の陶芸の世界に没頭するようになり、表には出てこなくなった。最近は年に一度くらいしか顔を合わせることしかなくなった。しかし、作家としては今からでしょう。まったくおいしいし、残念なことです。
 常盤山はり灸治療院
 友達の友達が治療院を始めるので、自宅の一部屋を改装してほしいと電話があり、鎌倉の常盤に下見に出かけた。話をしているうち僕の友達を沢山知っている。しかも、僕が出かけたイベントや出入りしていた所にも彼女も出入りしていたが、今日までまったく面識が無かった。一度や二度紹介されても人はなかなか覚えられるものではない。「床にガラスを張り物をおく」とか言い出す。遊べるとなると「お金のことは難しく考えなくていいです。」と云うことなってしまう。
 彼女は「cccc」というグループで「ノイズ」という音のパホーマンスをやっていたとのこと。現在も続けているが、はりの勉強とかで少し活動が鈍っているとか。音、人間の造り出す音、音楽などの規則性を破壊しようとする前衛的なアーティストです。後存知の人も多いと思います。
 今回、めでたくはり灸の免許習得したとのこと。常盤は大船、藤沢に近く、古寺の並ぶ古都の面影はない庶民的な町ですが、山の急斜面を少し上った自宅は、静かで緑に囲まれたなかなか良いところです。入り口の坂道がお年よりや車にはきついことや、あまり知られていないこともありますので、当面は治療にで向く出前診療を中心にやる予定とか。
 鎌倉近辺の人ではり治療を受けてみようかという人は、電話してみてください。アーティストの経験は患者さんのメンタルケアには有効に機能するかも知れないと思いました。
常盤山はり灸治療院
〒248-0022 神奈川県鎌倉市常盤493-5
Tel /  0467-39-3922 ・ 090-2416-8949
大坪絹子(日野繭子)

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