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  伊豆高原にて
小牧みどり
 
 原因不明の難病になってから、温泉がいいというので、毎週行くことになった。毎週行くのは車で1時間の、藤野やまなみ温泉で、町営なので安くて気に入っている。温泉病院の東尾垂の湯も気に入っている。ここは、かけ流しの湯で泉質がいい。ただ、せまいので病気の人やけがの人などのための湯だと思う。シャンプーなどの合成洗剤は置いていない。温泉も目的別に選んだらいいと思う。
 
 伊豆高原に知人がいるので、1泊で行くことになった。別荘地で明るくのんびりしたかんじがいいが、気がつけば、売りに出ているところがある。いいなあと思う洋館がなぜか売りに出されていて、ほかにもやたらと目につき、木がのび、鬱蒼としている。
 暖かいところなので、のび放題になり、南国的になっている。それはゆったりしていいかんじだけれど、ところどころは、木を切って畑にしたり、またはふつうの住宅地のように家と家が近くなっている。住んでいる人も多く、なにかと大変なこともあるらしい。その辺はふつうの住宅地とは住んでいる人種が違うとか聞いた。貸別荘というのもあり、安くなっているらしい。それでも観光地だから、1日3800円とか、安いのか高いのかわからない。売りに出ているところをパソコンで検索すると安いところは建物がかなり古い。築15年前だといわゆるバブル崩壊のころで、以後、急速に景気は失速していった。別荘どころか、ペンションなども経営不振で閉鎖されていったころだ。お金があれば買い時かもしれないが、病気になる原因はストレスであり、よけいなものを持つことではないだろうか。
 
 住むところというのは生き方に関わることで、何を優先するか、人生最大の決断を要することかとおもう。若いころは身軽で、アパートで寝るだけで、吉祥寺に近いところで楽しくやっていたけれど、だんだんと荷物もふえ、部屋数も増え、三鷹、小金井、八王子と引っ越し、親の介護で相模原にもどることになって10年、今では親も死に、ここにいるのも、いやになってきた。自分の設計で建てた家も、こうすればよかった、ああすればよかったときりがない。残りの人生をどこでどう生きるかは、どう死にたいかということだろう。
 伊豆高原の別荘地で、のんびり、ゆったり、お金の心配もなく、したいことをして生きられる人はそうはいない。こどもがいれば、子どもの教育とか健康とか、環境も心配だろう。年をとれば不便なところより便利なところがいいだろう。この国がよくなる見込みもないからいっそのこと、海外というのはどうだろう。
 それにしても、場所はえらべても生き方をえらべなければ、動きがとれない。さらに、1人では生きていけそうもない。生きるのが楽しいのは友だちがいるからだろう。楽しくなければ生きている意味もない。友だちは大事にしようと思う。死んだとき、どういう人だったと思われたいか、考えてみると、けちだったとか、人に頼ってばかりいたとか、愚痴ばっかりこぼしていたとか思われたくない。
 家も車もぼろぼろだったけど、正義感が強く、平和と人権と環境のためによく走り回っていたと思われたいのだ。そして、芸術家で詩人だったと思われたい。病気になってよかったと思う。理想に近くなってきたかなあ。それにしても、山里に庵を結ぶのはいつのことだろうか。

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