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手拭い
八木雅弘
 
● 風景がどちらへひらけているか。息の通い、気の通い。山は(流れを)遡って狭まるほど天へひらけてゆく。だがすべてを山にしてはならない。
● 雨は上から降ってくるというより、奥から滲んでくる。光も。私がここにいるから上なのであって、すべては広大な奥から来る。
● 顔は風景から道を持ち出すために鬩ぐ場所なのだ。顔は風景とも道ともなる。向きの問題だ。
● 汗が滲んで出るとき、滲んで入るものがあるということ。滲むことはすり替ること、両替、貿易。
● 余裕に追い詰められ、遣り込められる。ぶったおれて、袋小路を切り立つ断崖とせよ。
● 光も影もそこでほどけているしるしだ。長短の束ね方に鳴りを生じたりひそめたりする。
● 景色にひっかかってはならない。まなざしに巣食わぬよう。まなざしであるために景色の向うへ呼吸を放つ。言葉はその道を示すべきもの。
● 景色の手前に景色がある。からだに息が通わねば。分け入って、分け出る。
● 見ることに於て、息を引き取らせない、息を引き取らない。
● 画は立ちはだかる一枚の行き止まりに他ならず、息をどこへ逃がすかが
問題となる。息はむろん自分のからだへ通わせるのだが、行き止まりがまなざしによってひらけた穴となるとき、からだはそこに新たな息の路すじを見出すのだ。息は不思議なことに画から来る。画から、世界から、分け入る前に分け入られる。このからだに、さまざまな息が息づく。
● 息を逃がすことで息がやってくる。新(あらた)まるのだ。
● 一木を立てる息、呼気の茂と吸気の茂。
● 転落しながら息が繁るということ。
● 繁りながら退く。繁りながら迫る。
● 暴力には確たる動員力がある。
● 光は何を経る。色また色。見るは一滴、光が経て。景色は滲み、目も滲み。見定めたところから、どう滲みゆくか。見定めた頃から。融通とさらなる融通のあいだに滲みを泊(と)める。一息着。一息発。床を流れ、おりふしは洲。滲みぬいてひろがりを経る。取りとめぬために。結べばひらき、おりあいを渡る。
● 画は染み。褪せるが必定。見ることもまた褪せる。褪せゆく先があるということ。
● 足跡はこの風景の骨となる。足音はこの身の皮膚。
● 乗り物は皆な崖である。
● 髪は集まる。
● 聞えるならば、遅れたということだ。
● 打ち震えるということは聴えるということだ。鳴らなくとも響いたということだ。振り返る余地が(私を顧ることなく)あってこそ通り過ぎたといえるのだ。
● すれ違いは速度である。
● どんなに些細なものでも私をはるかにはみ出してしまう。それが憶い出すということ。私をはるかにはみ出してしまうものが私のなかからやってくる。憶い出して初めて動揺する。
● 黙ってそばにいるだけで、そこに息の根が息づいていると感じるだけで、世界の意味はそこで動いている。声はなくとも声の意味が動いている。それが、色気というものだと思う。
● 豊かさの対極はやはり貧しさだということに愕然とする。貧困のなかで豊かさを選ぶことはできないが、豊かさのなかで貧困を選ぶこともできないのだ。豊かさのなかで選び取れるのは飢えでもなければ貧しさでもない。乏しさである。貧しさとは恐らく私の生にとって世界が足りない状態、世界が充分に届かない状態だとすれば、乏しさとは私自身が足りない状態、私が世界へ届かない状態だと言えばいいか。世界が引き潮か、私が引き潮か。どこへ潮が退いているのか。潮の退き先へ向けて声音を放つべきだろうか。だが、潮の退いた痕のここが、まるで純粋そのもののように立ちはだかっていること自体、とどまっているここがとどめるちからかと露わに感じる。ひそむもののない、何の謎も可能性もない、ほんとうに剥き出しの、浅瀬のような世界が、私が私に潜(もぐ)っていると錯覚させてしまう。
● (聴き取ることのできない遠さで)晴れ渡って木をメロディが通りぬける。通りぬけてメロディはおしえる。繰返しではない。繰返すことはできない。朝行って日暮れに帰る。それはおまえだ。メロディは繰返すよすがにはなっても、メロディは返らない。繰返すことができない。せめて、唯いちど通りぬけるあいだ、存分にふるえ、そよいで通す。通ることがメロディなのだ。木が木を出来することだ。ふとメロディが生じるのは、メロディに生じるという意味でのことだ。そよいで、ただ一度がきわまりないものとなる。
● 声に沿って水が流れる。
● われわれは些かなりともこの世界で何かを動かしていると思いたがるが、そのじつ動かされているのだ。じぶんを衝き動かすちからを充全にはたらかせてなるべく妨げないこと。ちからがそれじしんを速やかに全うすべく、明け渡すことによって消費しつくすこと。われわれは消費の具、むしろ消費の場である。動くことは、より動かされ易くするために、関節をはずすことによって関節を獲得することだろう。
● 光はまず老いて届く。老いているということが届いた先で端緒となる。
● 顔は孤独だが複数でもある。一つの顔が複数なのだ。
● 儀式に帰りはない。参じた以上、帰路は払拭される。儀式を帰す、というか、儀式を見送ることができるだけである。
● 壁は壁面にしまう。一瞥は一日(じつ)に如かず。
● 見はるかす。聞きはるかす。光あふれて、ここにある静寂と、あそこ、光射してくるところにある静寂とは、全くべつの静寂。互いに聞き及ぶこともない。
● 緑のない失墜。だがそこには鮮かな緑がある。ここにはない緑が、そこに、ここを含めている。
● おり、すなわち沈澱物(と降りつもるに要した時間)が、多いほど揺さぶられて立ちのぼり、光を掩ってしまう距離。それが、響き。
● ふし。身体の関節。出来事の関節。関節をつくって物事はつながっている。そのメロディ。息のかけひき。
● 霊が肉を支えるのは、つねに肉に遅れ、谺のように届いてのことだ。届いたときには肉はもう別の肉になっている。しかし、届いた霊は響いて振動を伝えずにはいない。霊がふれるのは霊にだ。だが振動する肉が、振動する大気が、是非とも必要なのだ。振動するならどの霊だろうとどの肉だろうと仔細はない。あらゆる営為が振動を生む。それが霊だ。霊は発せられ、伝わることで遅れ、遅れることで見境なく肉を捲き添えにし、こうして振動は窮まりなく拡がってゆくだろう。
● 光は届くのではない。通過するのだ。皮膚を光が通るとき、記憶をそよがせるものと記憶とを穿き違えてしまう。
● 所有は私を残して渡ってしまう。返らないこと、失うことは、たぶん分かち合うことなのだ。彼岸は対岸ではない。岸は向かいあっていない。それは無数の反映を有つ。
● 産ぶ毛が土砂降り。
● 墓は水に沈む。隔ててすりきれる。
● 幾重にもすりきれたはずの死者が俄に犇き発って、狂暴な自失のなかで日は受け渡される。愚行は荘重を極める。
● 生むことは、剥離に実って、退くにひとしい。
● 音楽が私にではない。私が音楽にどのようにして近づき、音楽の側へどのように立つかである。死者が生者の側へどう立つか。どのように墓へ近づき、その側へ立つに到るか。幽明を問うようにして生死を伏せ、音は一つだに、あたかも者と者を(物と物を、物と者を)媒介する。しかも、隣りあう音と音、音と物は、すでに境を異にする。音には隣があり、物にも隣がある。聴える、ということじたいにも隣がある。音が隣をはるかす。遙か隣り。全ての生者は死者に到るという意味で、全ての死者は予め生者であったゆえに、世界は無数の物音で出来ている以上に夥しい隣によって介入されるようにして鳴り響く。はるかなものがここで鳴る。不意に隣る。耳傾けることは死者のように折り入って、死者のようにくぐもること。響き渡るのは世界の均質によるのではない。響きが世界を超えて渡ってくるのだ。響き、すなわち振動は、べつの世界が隔てを超えて伝わるときに生じる。べつの世界とは要するに他者のことだ。音楽は、世界はすでに(あるいは予め)隣を孕んでいることを示す。われわれは鳴り響く柩を通じて音楽を聴く。音楽を作ることも聴くことも再生にほかならない。
● 近づいてくるからだから木もれ陽のような光がちらちらと差している。

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