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 納骨

 2月1日、村の人、親戚、兄弟が集まり、母の納骨の法事を済ませました。ああいう死に方でしたので、葬式は声を荒げる人はいませんでしたが、みんな心の中はパニック状態で混沌としていました。しかし一ヶ月経ち静かに「母の死」を受け入れる心構えが出来たと見え、いつもの会津の田舎の法事になっていましたので、僕もほっとしました。お袋の親戚筋から「病気じゃ仕方ない。」との言うコメントをもらったと兄が言っていました。田舎は田舎で複雑に人間関係が入り乱れなかなか複雑なのです。これで兄も一安心でしょう。

 僕の前回の文章にクレームが付きました。「兄が母のお金を取った。」と言う話しは一度もなかった。兄や義姉から聞いたことではなく、その外側の誰かから聞いた言葉ですが、母の被害妄想を表わす言葉として分かりやすいので僕も信じてしまいました。今回、改めていろいろ聞いたのですが、ここに書くには背景説明が長くなりますので、省略します。

 おみずや山崎さんに春にでもなったらお袋のお墓参りしてくれない、と電話で話したら、快く承諾してくれました。うれしいね。その話しはその時になったらこの紙面で報告します。

 

   痴呆でも 寝込んでも 親は畳の上で死ぬのがいい 

   母の死は ポッコリ空いた 穴のまま

                       守 feb./'04 

 

 

 年賀状

 懐かしい友達から年賀状が舞い込んだ、かれこれ三十年あっていない。水俣病患者支援運動時代の知り合いである。東京の映画の事務所から住所を聞いたと言う。彼は型枠大工をやっていたこともあり、頭でっかちの学生の多い患者支援グループの中で、車の運転や大工仕事を屁理屈を言わずやる実務派は貴重な存在だった。本名は「中ノ上」といったが、彼の田舎の近く「東郷」と言う地名があったからだと思うが、通称「東郷さん」と呼ばれ、みんなに親しまれていた。

 僕は彼と一緒に地下鉄工事の型枠大工のアルバイトもよくやった。当時彼の出身地、鹿児島川内市で原発計画があり、その反対運動にも同行した。川内の隣の隣町宮之城の実家により、鹿児島のお雑煮をご馳走になったり、二人だけで、周辺で一番人の集まる新田神社で、真夜中の初詣の人にビラまきもした。

 一月の末、恐らく新幹線の中からだろう電話があった。川崎で水俣関係の催しものがあるので、そこに集まった古い仲間達と飲もうと言う誘いである。予定があり、僕は顔は出せないと断っかったが、しばらく電話での昔話となった。

 その後、数日の間、次から次と当時のことが思い出されては消え、また思い出されるが続いた。僕の青春時代だったのです。

 新橋

 二月半ばごろから、仕事で虎門のホテルに何度か通うこととなった。ある日の中抜けの時間に街を歩いた。森ビルは昔のままであるが、コンビニがやたら目に付く、またコーヒー専門店が各路地ごとにある。そのコーヒー店のひとつの窓辺に腰をおろし、街を歩く人々(サラリーマンやOL達)を眺めていると色々な思いが出てきて、少し感傷的になったりする。

 この街の近辺、新橋、丸の内、霞ヶ関は僕の青春時代とオバーラップする。水俣病の告発する会の事務所が西新橋にあり、チッソの本社が丸の内にあり、環境庁が霞ヶ関にあったのです。僕らは、ビーチサンダルによれよれのジーパンでこれらの街をかけずり回っていたのです。渋谷や新宿に行けば同じような若者がたくさんいましたが、あえてスーツの街でよれよれの姿は、「誰も、僕らを止めることは出ないよ。」と言う主張を鮮明にしているようで、快感であったのです。

 最近の牛丼騒動で、TVで新橋烏森口の「なんどき屋」が紹介されていた。チッソ本社前で毎朝配るビラを徹夜で毎日事務所で作っていた。謄写版で手書き手刷りだったんですよ。真夜中、夜食をよくこの店に牛丼を買いに行った。吉野屋も近くにあったが、糸コンギャクと焼豆腐がよく煮込まれたなんどき屋の牛丼を食べたら吉野屋の牛丼は食べられなかった。

 ちなみにチッソ本社のあった丸ノ内の東京ビルディングは今解体されてしまいました。   

     苦しさも 今は遠き 春の中

 

 景気・そして・・・

 少し景気が上向いてきて助かっています。仕事を選べるほどに出てきたからです。まだまだくそ真面目に働き蜂の日本人なんですね。なのに、景気が悪いのがおかしい。当然のことです。でも、今と同じ生活水準を保つのに、今の三分の二の労働で達成できるようになったらすばらしい。余った時間を今までやってこなかったこと、家族のためや、ボランティアや、趣味に使えるようになったら、それこそ成熟した社会なのだと僕は思います。

 「みんなが芸術家のようになる」と共産主義の究極の夢をマルクス達は見ようとしたのですが、百年以上前の人の計算違いはしかたがない。日本の社会は今でも伝統的な村社会の倫理が生きていて、個人主義の社会ではなく、多分に社会主義的要素が高い社会です。マルクス達の夢に遠くない社会なのかも知れません。僕はある時期から社会主義運動が、国家主義に、政治主義に変わってしまったからおかしいので、これからも相互扶助と自由は社会の両輪だと思います。

 最近、アメリカが超大国と言う我がまま坊やに変身てしまって、嫌いなのですが、どうしてまだアメリカコンプレックスの人が多いことか。アメリカの白人の伝統は高々四百年、日本は千年以上の歴史があるのです。物事のに対するきめの細やかさ、丁寧さなどは、千年以上の歴史が育んできたものです。この狭い地球を今までの乱暴な冒険主義で扱ったら、すぐに病気になってしまいます。限られたものを丁寧に細かく使う繊細さこそ、これから求められる能力であるし価値だと思います。

 

 新選組

 母のことで田舎に帰り、会津若松に立ち寄ったら、「新選組」と言う大きな垂れ幕が出ていた。会津藩お抱えの浪士隊ですから、新選組ブームに乗って観光客集めに使おうと言うことなのだが、このブームが僕には分からない。

 当時の若者が行動を起こしたい、と言う気持ちはよく分かる。彼等は人のいい、社会の行く末を憂うる若者だったのだろ。出世しようと言う野心もあってもいい。それは若者なら当然のことである。でも、もう一つ先を見れない脳味噌の足らなさはかわいそうと言うより馬鹿です。

 僕らの世代と言うと、新左翼運動はいいのですが、馬鹿まじめだから内ゲバをしたり、テロ集団になってみたりする馬鹿馬鹿しさと同質のものを感じる。亦、宗教もいいのですが、気づいたときはオーム教のテロリストのような、ある種の欠陥があるのだと思う。それが若さだと言えばそれまでだが。

 新選組の中にも、先々幕府に付いても意味がないと離れていった人々もいたのにね。幕臣や会津藩士なら分かるけど、彼等は自由な立場だった人なんです。何人も到幕派の浪士を殺してしまった以上逃げなれなかったと言うのが実体なのかも知れないが、僕には好きになれない集団です。



 結び・おむすび

 お結びお握りと言う言い方がある。お握りは分かるがどうしてお結びになったか分からない。でも「結ぶ」言うことに込められた日本人の思いが、歳を重ねるにしたがって分かってきて、お結びという言い方が断然好きになって来る。

 お結びは、命を結ぶ、命を長らえると言うことなんです。「結ぶ」と言うことは紐を結ぶと言うことであり、物と物とを結びつけると言うことであり、人と人をという具合に人間の精神的なものを結びつけると言うふうに大きく深い意味を膨らましてきた言葉です。あくまでの良縁を結ぶと言うことです。

 人が人間であるのは、人と人が結びあうことによって、動物から人間へ変わるのです。「知恵」を結びの輪の中に共有したことに始まることです。「結ぶ」と言うことは人間であることとその根幹で関わる言葉なのです。だからお握りよりはお結びの方をたくさん使いましょう、と思う昨今です。  

 

 突然・詩 / 福生・回帰線

 2月29日、1月につづき招魂舎痴明の店「回帰線」で蕎麦の会をやった。夜も深まり、突然詩の朗読会が始まった。自作の詩や金子光晴とかのしなので懐かしい。写真はその時のものです。回帰線は福生の有識者の社交場なのである。          

 

 

   Tel / 090-5346-9763

       

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