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江戸の夏・六月の祭

江戸の夏・六月の風物と食

  

―― 「筑摩文庫『江戸あじわい図譜』高橋幹夫著」より抜粋 ――

 ●六月七日・京都祇園祭 「祇園」とみな言うが、祇園会の神輿を置いた所が八坂郷の感神院だったので、本来なら「感神院」というところだが、誰もそうは呼ばず祇園という。しかし鳥居の額には感神院とある。
 その昔は鉾が六十六、山(注1)が百八十四あったという。六月七日に出るのは長刀なぎなた鉾、菊水鉾、月鉾、鶏鉾、放下ほうげ鉾、船鉾、傘鉾(二)。以上が八か所から出る。山は天神山、霰天神山、占出山、太子山、白楽天山、破琴山、郭巨かつきょ山、山伏山、木賊とくさ刈山、孟宗山、蘆刈山、蟷螂とうろう山、保昌やすまさ山、岩戸山、以上十四か所から出る。同じく十四日に出るのは、船鉾以上一か所、橋弁慶山、黒主くろぬし山、浄妙山、行者山、鯉山、鈴鹿山、八幡観音山(これは二か所あり、隔年に出る)、鷹山など洛中各所から出る。
 これはある本からの引用だが、それによれば、こうした鉾を警護する人は新調の衣服は着けず、蓄えてある夏服を着て裃を着けたりする。鉾は江戸の山車だしのように新しくはなく、昔からのもの。従って一見古びているがご元来は美しいものだったのを伝えている。
 上の人形もみな名工の作だし、幕も本物の唐の織物、長刀鉾を第一とするが、これも正宗の真作だとされる。或いは小鍛冶宗近ともいう。一来いちらい法師の鉾の甲冑は、楠木正成の遺物ともいう。囃子も笛と大鼓で静かに行き、江戸や大坂のように騒々しくない。
 大きな店の子供が公家の姿をして、肩輿に乗って神輿に供奉する。この童子の衣装は新調するが、従う男女は普段の衣服。祇園町の遊女も色々な姿に扮して処々で踊り、これを練りものという。衣服なども美しい限りを尽くすが、晴れていても降っていても裾を引いて行く。これも見もの。ただし神輿には供奉しない。
 京都の祇園会、大坂の天神祭、江戸の山王・神田の両祭、これは交互に隔年に行なう。これらは市民の一大行事だが、祇園の鉾と山、大板のだんじり(注2)、江戸の山車(注3)というものは、形は異なるが意味は同じ。しかしさすがに京都のものは名器といえる。

 ●天満天神などの渡御 大坂の祭礼は天満天神の渡御を第一とする。これは神社から御輿が難波橋北川岸までは陸おかを行き、ここから舟に乗り、旅所まで行く。この時、西の辺は船を業としている家が多いのでお迎え舟というのを出すが、これは黒漆や朱漆塗、金銀箔押し、彫り物など立派に飾り立てたもので、舳へさしに色々な大きくて綺麗な人形を一体立てる。蛭子ひるこのあるのは戎えびす島、山本道鬼は勘助島、或いは素戔鳴尊など。こうした舟があるのは天満の祭りだけで、この舟は祭礼のためだけのもの。みな屋根付で、下手にたとえるなら精製の仏壇といったところ。
 天神その他の各社の祭りの渡御には「だんじり」という車を出す。総槻つき造りで彫り物などもしてあるが、そう美しいものでもない。道修どしょう町や堂島などのものにはていねいに作ったものもあるが、中には道具屋が持っているのを祭礼の間、損料を出して借りて使う所もある。こうしたものは特に粗未なもの。
 このだんじりは図のようになっていて、舞台の下で大きな太鼓を叩き、床の上では褶り鐘などを鳴らす。近年は悪い風習が移って役者の声色などを真似するものもある。屋根にある団扇には「すけ無用」などと書いてある。後ろの方には「てこ前」といって、車が進み過ぎるのを止めるための力士が二名いて、梃でこれを正める。この係と太鼓を打つ者は雇われたもの。二本の綱が付いていて、子供や大人がこれを引く。

 ●神輿太鼓 これは図のように八本の杉の丸大を縄を使って周りに結ぴ付けたもので、揃いの染め襦袢を着た男たちが肩で担ぐようになっている。屋根は羅紗や猩々緋などの布団を五枚重ねてあり、中央に太鼓が据えてある。
 男児四人が水色の紋付の帷子かたびらに赤縮緬の投げ頭巾を着け、手甲脚半は浅黄ぬめ絹。帯、腹当、紐、たすきなどは縮緬か天鵞絨ビロードに錦糸縫い。帯締め、しごきは鹿の子縮緬など。太鼓を打つ子供はたくさんいるが、四人ずつ交代でする。これには借りてきたものはない。

 ●大坂の祭礼 大坂の祭礼が京都や江戸のように盛んでなかったり華やかではないのは、京都や江戸のように幾年ごとに何町は何を出し、こちらからは何を出すといった決まりがないからだ。大坂の場合は、ただ臨時に若い者が若年寄りなどに話して許されれぱできるし、許されなけれぱ何もできない。従ってだんじりを出すのは堂島、雑魚場ざこば、靱うつぼ、市の側などの盛り場のみで、このほかでは道修町などが華やかに近いが、これはある程度の富裕な人たちがいるからだ。その他は船を生業にしている者、或いは車夫馬子たちが出すのだから派手にできるわけがない。北辺の富豪が多い町や商人の多い町からだんじりや神輿太鼓を出すことは決してない。

 ●祭りの衣装 木綿の単衣ひとえか木綿の襦袢で、みな町名や地名の文字や印を染めたものが多い。たいがいは紅刷り染め。単衣は必ず藍染め。世話人という中老の人や、若者や子供でも、みなにぬきんでて美しいものを着る人もいる。こうした人は羅紗や縮緬などを使う。帯は博多織。たすきは白赤黄、その他とも縮緬に三色ずつを掛ける。褌にも縮緬を使う。腹当や煙草入れなども、こうしたものに準じたものを着けたり持ったりする。足は白足袋で草履を履かない。また、揃いの衣装やそのほかも必ず新調のものを使い、二度着ることはしない。

 ●祭りの町 神幸しんこうの路地は各家とも幕を打ち、屏風を立てる。路地ではない氏子の地は表を開ける。商人の家では簾を表口すべてに掛けるが、格子の家は幕や簾は掛けない。大坂では神幸の前には猿田彦が仮面を付け、鳥兜(注4)に赤袍せきほう(注5)などで騎馬が前を行く場合もあり、その神社の格で行列は変わる。

 ●六月十五日・江戸山王社祭礼 神幸がある。寛永十一(一六三四)年にすべてが整い、大祭になる。当社と神田明神は隔年の祭礼。天保の改革(一八四一)前は年々華やかになり、山車や踊り屋台、地走り(注6)などを出すのは四年に一回だったが、命令(注7)後は両社とも氏子の地のうち三か所ずつ出すことになったので、以後はおよそ三十余年に一回、踊り屋台、地走りを出すことになった。この三か所を年番という。これは年を順に輪番するからだ。
 当社の山車は五十七輛あり、これは隔年祭礼ごとに出す。天保以前は町費で出すだけではなく、ほかに店たな祭りといって大きな商店が一軒の費用で踊り屋台や地走りを、或いは花駕籠を出した。踊り屋台については九月の「神田明神の祭礼」のところでふれる。
 地定りというのは、屋台はなく歩いて行く。踊り子には赤紋付の傘を差しかける。大きさは通常の長柄の傘より小型。囃子は底抜け屋台。踊り屋台や地走りの踊り子はたいがいは芸者(注8)が務め、たまに商家などの娘が出ることもある。囃子方、芸者とも雇う。花駕籠というのは、造り花で駕籠の屋根を葺き、布団や毛氈にごく良いものを使い、男児でも女児でも綺麗に化粧して乗せる。天保後、これはなくなった。
 年番に当たった町人は、夏だというのに袷の良い服を五枚重ねて着る。年番に当たった警護人も、或いは袷を重ね、或いは夏服のままもある。年番に当たっていない町ではたいがい家主だけが出る。年番に当たった町ではすべての家から出る。或いは袴を着け、或いは着流し(注9)もある。そのほか雇った者までみな新調の服を着て古いものは着ない。麹町は古服でも出る。「てこ」といって、その場所、の鳶人足が大勢で揃いの浴衣で山車の前で木遣きやりを唄いながら行く。諸警護の人から「てこ前(注10)」の人たち、雇った人まで必ず造花を付けた笠をかぷる。天保前は御用祭といって氏子の地以外にも幕府の命令で屋台や地走りを出すことがあったが、これも天保後はない。
 当社、神田明神ともに氏子の町のうち四、五町或いは七、八町に山車を一輛とする。この四、五町か七、八町が費用を出し合って、山車を出し、年番も務める。大伝馬町は鶏に鞨鼓かつこ、南伝馬町は猿が鳥帽子狩衣姿。これを申酉さるとりといって一番と二番に出す。この二輛は毎年両社の祭礼に出し、この二輛を先頭として氏子の町内のものを三番以下として進行する。江戸では祭礼の前日当日とも各家で丸提燈を掛ける。山王、神田、牛頭ごず天王の神幸には獅子頭一対が行列の先頭を行く。木綿を染めた身体に見立てた形のものをたたんで頭の下に敷き、一人の鳶がこれを肩にして二人並ぴ、そのあとから大勢の鳶が木遣を唱和していく。山王の獅子頭は将軍家光公から出た反古で作ったと伝えられていて、観る者はすべて土下座をする。

 ●武蔵野の山車 月に芒すすきの作りもの。上段の岩の形をしたもの、三重の波の形、四方に垂れた波もすべて紙張りに胡粉を塗り、墨と藍で描き、二重の幕は茜あかね染め、その他も木綿製。日覆いも木綿。四面に垂れている波形は三、四を描くだけで略してあるが、実際は十余りもある。骨は毎年使い、紙の部分は毎年新しく作る。その費用は三、五両。人形の山車とこれと双方とも前の欄干の所に太鼓をくくり付け、鉦かねに合わせて合奏する。先年はこの形が多かったが近年は少なくなった。

 ●人形の山車 台上の人形は色々ある。柱や欄干は唐木か黒塗り。幕は羅紗か猩々緋の無地。或いは刺繍のしてあるものもある。唐織りを使ったものもある。この型の山車を新調すると一輛でおおよそ四、五百両。車は芝の牛町で雇う。轅ながえの中に牛一頭、轅の前に綱を付けてもう一頭の牛、都合牛二頭に引かせる。二頭の牛の雇い銭は十四、十五の二日で金一両。

(注1) 山:だしのこと。江戸ではだしと呼ぴ、砥園では山と呼んでいた。先に松を付け、土台に山形を付けたところからの呼ぴ名だろう。
(注2)大坂のだんじり:祭りに出る屋台のこと。大鼓を乗せて行列する。
(注3)江戸の山車:これも祭りの屋台。やたい、といっても食い物屋や、玩具を売る仮店ではなく、祭りの飾りを乗せて曳いたり担いだりなどするもの。
(注4)鳥兜:頂点が前の方に尖り、錣が後方に出ているかぷりもの。鳳凰の頭をかたどっている。 (注5)赤袍:赤い素襖のことか。
(注6)地走り:祭りの行列の中で、赤い紋付を着たり、赤い傘をさしかけられながら踊る人たち。
(注7)命今後:天保の改革の諸令が出てから、の意。
(注8)芸者:芸を売る女性で、料理屋などに呼ばれて三味線などを弾いた。
(注9)着流し:袴を着けないくだけた姿をいう。
(注10)てこ前:これはこう書いたのだろうが、現在は手古舞と書いて、てこまい、と呼ぷ画町内の若い娘や、芸者が男装をして全棒を持ち祭の行列の前を歩く。



 ●西瓜 江戸時代の『俳諧歳時記』には、四月、五月、六月を夏としてある。その六月の項の最後に水菓子をいくつかあげている。中から拾うと、「水瓜」こう書いてこれは西瓜のことだとある。このほかにも瓜の類が色々載っている。阿古陀瓜あこだうり。これはあまり食用にしない淡い味のもので、形はかぼちやに似ているという。白梵天。真桑瓜の皮の白いもので、歳時記には大和の田村、およぴ南都、つまり奈良から出るとある。真桑瓜はかなり古くから食用として栽培されていたようで、種類の多い食用の瓜。このほかにも、菜瓜、これは白瓜ともいうとある。林檎。これは江戸時代にすでにあったことがわかる。夏桃。
 このほかに、この頃行なうものとして、奈良漬を製すとある。納豆もこの頃作るとある。醤油、醤、とうもろこしもこの頃作る。次に「夏切り茶」があげられている。これは何かというと、六月の初めに宇治の茶人は新茶を壺に入れて人に贈るが、これを夏の壺という。その壺の目張りを切って茶を出すことを壺の口を切るという。冬に壺の口を開くものは、夏のあいだ森林や山奥に置いておく。従って夏に最初に使う茶を夏切り茶という、とある。

 ●六月の魚と野菜「膾の部」には、水鯖、洗鱸すずき、洗鯉、水貝、むき蜆しじみと並んでおり、水鯖にはいかにも細作りにと添え書きがあり、蓼をそえる。洗鱸は煎り酒で山葵。洗鰓も同じ。水貝には、ずいぷん細く作り、酢漬の生姜を千(千切り)にしてそえるように書かれている。むき身蜆は青酢味噌(注11)と盛り合わせる。

 「冷やし煮物の部」には、こごりにとあり、魚白瓜(注12)と添え書きがある。こごりとは煮こごりで、その昔は鮒を使ったようだが、ここでは何でもよいのだろう。煮こごりというのは魚を煮て、その汁を冷まして固まらせたもの。このほか、こし玉子、うもれ豆腐、おろし柚というのもある。割り慈姑くわい(注13)ときくらげの玉子とじ。錦糸玉子とぜんまいと、かいわれ菜。巻き蒲鉾と梅干、紫蘇。櫛子くしこ、長芋、細小角豆(注14)。ここでも野菜が主流。

 「汁の部」を見てみると、鶴と青鷺が登場して、あとは野菜。石茸と小蕪。鶴とえのき茸。茄子を薄小口切りにして青鷺とある。

 「猪口の部」の添え書きは、或いは小皿、または和え物とあり、鱚の刺身は玉子切らず和え。鮑うに和え。さより細作りもずく。これは生姜酢で頂載するようだ。柚練り和え、蒲鉾味付けて。

 ●夏、四月、五月、六月にわたる魚と野菜
「焼き物の部」
として鱸が出ていて、これは当座味噌清け。鮎は蓼酢。同じく色付け焼き。鰻蒲焼。鯛は山葵醤油付け焼き。つけ合わせとしては鳥賊いか田楽、車海老。焼鳥、鴨、ひばりとある。

 「吸物の部」では、鱚があり、これは細作りにして木の芽をそえる。削り鳥賊と紫蘇。蛆薄味噌と辛子。梅干と紫蘇、一緒盛りにして煮え湯をかけて胡椒。鯒こちは皮をむいてふくもどき(注15)にして、夏大根を厚く輪切りにして面を取り、吸い口として柚の花か青柚の輸切り。このくだりは今の用にたるもの。干し河豚ふぐの皮。これは河豚の度ではなく、干した鰻の皮を使い、味噌汁にする。青山葵英をそえる。「せゐこ蓮の葉巻」というのもある。せいことは鱸の一年未満の幼魚のこと。赤貝と紫蘇。干鱈。これは、よくよく水に漬けて塩の出加滅を試してから塩梅することとある。すまし汁に仕立て、青昆布を短冊に、描椒をそえるとある。川海老輪切り、青い柚。

 「取肴の部」 干し鰈がれいは焼いて慈姑と。生干し節。これは鰹節の半乾きのものか。これを引き裂いて塩煮をして胡桃がれいをそえる。干し鯛小角切り、酒塩煮。小海老、海月くらげ糸切り。鳥賊と切り納豆。凍り豆腐旨煮に海苔かけ。青豆。皮をむいて塩煮、慈姑の色を付けたのを押して出す。鰡ぼらの皮付け焼き。

 「重箱一重二重、引き物」には鰈を蒸して葛あん、添え物は生妻。はや寿司(注16)。二重上は奈良漬、はだな白瓜(注17)。下は竹の子、大梅干、葉山葵。鮭塩引き、干鱈いずれも薄短冊。

(注11)青酢味噌:青いものを微塵にして混ぜた酢味噌。
(注12)魚白瓜:煮こごりに、魚と白瓜を付け合わせにするの意か。
(注13)割り慈姑:切った慈姑。
(注14)細小角豆:いんげんまめ、のことか。
(注15)ふくもどき:河豚のように見せかけること。
(注16)はや寿司:酢でしめた魚と熱いご飯とを交互に器に入れ、蓋をして一夜で発酵させた寿司。
(注17)はだな白瓜:はだな大根というのがあり、相模の秦野で作られた大根という意味なのだが、或いは、相模秦野で作られた白瓜か。