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      友よ、静かに、ねむれ

 徳田 ガン

 夕暮れの飯田線の伊那駅界隈を、散策する。少しゆくと、天竜川に流れ込む小さな川が、勢いよく流れていた。
 「山から雪が解けて流れてくるのかしら」と、ぽつりと妻はいった。遠くに赤い橋が、架かっていた。東京は、暖かく、桜はすでに終わっていたが、ここ高遠の桜はまだ咲かず、随分と冷え込んできていた。路地をゆくと、30年前の場末といった臭いのするところに出くわした。閑散としたパチンコ店には、音だけが、けたたましく鳴り響いていた。まるで、昭和時代にタイムスリップしたようだ。小さなバーが、あやしげに軒を連ねている。少年時代に出会ったそんな風景に迷い込み、私達は、ある店に入り、ローメンを注文した。ラーメンではなく、ローメンである。ヤキソバでもない。麺事体が、太く丸くぼそぼそしている。まずは、ソースをかけて、お好みに応じてお酢やニンニクをかけてくださいとある。肉は臭いのきついラム肉、その周りにキャベツが浮いていた。甘い味、ラムのニオイ、ニンニクをいれすぎたのか、なんともいいがたい味である。

 「伊那に来て、ローメン食べてなかったのだ、うん、どう説明していいのだろう、一度、食べてみたら?、、、、、俺が、薦めてるわけじゃあないのだよ、、、、。」

Kが、笑って一言つけくわえたことを思い出す。

 妻は、キャベツ以外は、ほとんど残していた。確かに、説明しがたい味であった。

「東京からですか?」と、モンゴル人のような、白髪の老主人が声をかけてきた。

ローメンのお話を拝聴する。ここは、ローメンの発祥の地であったのだ。



 その店を出た。暗くなると、寒さは一段と増した。あの電話から、1年が経っていた。夜、電話があった。

 「徳田さんですか?」「はい」、、、、、聞いたことのない声だった。

 「たまねぎのマスターが、先程、亡くなりました。」

 たまねぎのマスターとは、30年来の親友Kのことである。しばらく会っていなかった。また、一緒に山にでも行こうと思っていた矢先である。それは突然だった。何回か、このような突然の知らせを受けてきた年齢なのだが、、、、、、。信じられなかったのは、そのことだ。私は、Kがあちらへ逝ったことを認めたくなかった。私は、長いこと、この事実を避けるためにK宅の訪問をのばしてきたような気がする。

 伊那駅の合同市庁舎の隣にある西洋田舎料理店「たまねぎ」に入った。白い花々に囲まれて、あいつのギターを弾いている写真がテーブルにあった。

あいつがよく弾いていたフラメンコの曲が響いていた。 

 「ガンちゃん、いま、着いたの?」 

少し、やつれたか、いつもどこでもKと一緒だったクーちゃんの声は、少しかすれていた。

 私は、Kとは喫茶店のアルバイト仲間だった。彼は、杉並のエリート高校N高校から、当時は、T立大学に在学していた。N高校時代からすでに学生運動をしていた。彼は、音楽の話をすると目を輝やせた。当時から、ギターは、かなりの腕だった。私は、M大で、演劇をやりはじめていた。共通点は、あまりなかった。彼は、痩せ型で柔らかいヒゲをはやして、パイプを口にくわえていたものだ。生意気なインテリという第一印象である。ひょんなことで、言い争いになって、軽い喧嘩をした。その夜、どちらが誘うでもなく飲みにいった。飲むとかなり饒舌であった。ドストエフスキーの話になると、口角に泡を飛ばして喋った。彼のアパートに、深夜、転り込んだ。灯りが、点いた。そこには、高校生のような小顔の少女が、いた。その少女は、KのことをK君と呼んでいた。彼らは、確か18歳で出会い、19歳には、同棲していた。彼女は、当時白いブラウスに、紺のサージのスカート、ぺたんこの茶色のシューズといった清楚な面持ちだった。新宿のクラシック喫茶にて、アルバイトしていた彼女に惚れ込み、弁当持参で通いつめたという話である。彼女は、おとなしくいつも文庫本を読んでいた印象が強い。それは、安田講堂事件の前年ぐらいであったか、、、、、、日本のアンダーグランド、前衛芸術の、萌芽であり、全盛でもあった頃だ。翌年、彼らは、安田の砦の中まで行為を共にしたようだ。同年、私は、何故か、頭を丸めて、M大のバリケード内の551号ホールにて安部公房の「城塞」を演出していた。‘77年か、’78年ころ、彼らは、横浜港より、ナホトカ、シベリア経由にて、モスクワ、ヨーロッパを縦断して、スペインにはいった。スペインにて、尊敬するギターラに会い、溺愛するヒターノの歌い手と旅をし、生活のために大道で人形製作をしたり、石に書をかいたり、彼らの便りは、いつも新鮮であった。やがて子供ができた。ほとんど強制送還一歩手前にて帰国してきた。

 しばらくスペインの貿易関係の仕事をするが、うまくいかなかった。一時、耕運機やトラックターの営業をやっていた頃、 

 「そろそろ1年経つのに、俺、一台も売れないのだ、、、、」と、 

 東京でのサラリーマン生活に元気を失っていた時期もあった。それも束の間、伊那の山の奥の奥に小屋をたてたのだ。それも使い古しのプレハブである。水は、上流の湧き水より、引いた。子供の学校は、バスが来るところまで7キロぐらいあるらしい。彼らは、手作りの家を建てるために、木を倒して、皮をむいてそれを柱にするという。その仮プレハブを建てたのは、夏だった。この山の冬は、半端ではないようだ。その1年後、ほとんどふたりで、立派なログハウスが、完成した。その勢いに乗じたのか、彼らは、ここ、たまねぎをオープンした。昼は、ク―ちゃんが、スープを主体とした西洋田舎料理屋で、夜は、Kのフラメンコの居酒屋であった。店のカウンター、椅子、テーブル、本棚、ほとんどすべてが、ふたりの手造りであった。そこに座って酒を飲んだ。フラメンコの曲は、かかっているが、手を叩いて、リズムを取る人は、別にいず、それぞれが、勝手にやっていた。あいつの好きだった曲が、ながれて、あいつの好きだったシェリー酒がまわってきた。あいつが、30年前に出会った、あの顔をだすような気がした。あの頃と同じ年頃の客が、多かった。なかには、外国人の若者も数人いた。常連らしい。常連のひとりが、声をかけてきた、、、、、 

 「マスターのお友達ですか、、、、わたしが、はじめてこの店にはいって飲んだとき、マスターは、ほとんど、話さなかったわ、、、、、、、、なんとなく、そいつの素性をしりたがるものなのだけれども、、、、」 

 ここは、狭い地方都市で、狭いシガラミを解き放ってくれる場のようであった。クーちゃんが、先程より働きづめである。働いていないと、間がもてぬかのような気がした。信じられない話だが、客を数人残したまま、私達は、クーちゃんの運転する4WDにて山に帰った。ハンドルを握っているその横顔には、文庫本を手にして、じっとKを待っていたあの少女からは、想像できない逞しさがあった。小屋に近づくと、カタビラという戦車のような雪道車に乗りかえねばならない。雪は、固く、凍っていた。距離は、近いので私だけ歩くことにした。しばらくゆくと、視界がきえた。暗闇であった。先程から、カタビラのエンジンの音は、しているのだが、闇は、続いた。もどろうかと思うほどだ。歯が、ガチガチなるほどの寒さであった。東京では、桜が散った季節であるのに、ここは、寒くて、暗かった。やはり、あいつは死んだのだ。

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