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覚悟の人、三輪啓さんを偲ぶ 

 

小牧みどり

 三輪啓さんが2002年6月3日、突然亡くなられた。その夜には、日の出の森・支える会に来られるはずだったが、自宅に電話すると昼ごろ心不全で亡くなられていた。日の出の森・支える会はそのままただちに偲ぶ会の準備に入った。7月20日三輪啓さんを偲ぶ会には急な呼びかけにも関わらず90人の参加があり盛会であった。これより1年も前に遺言のようなものが書かれており、それによると、「葬儀は内輪で済ませ、1年以内に偲ぶ会形式でいろいろな角度から『どういう生き方』をした男かつつきまわしてもらいたい。」ということだった。準備する中でご遺族から知らされたことで、私たちはこの偶然におどろかされた。丹沢ブナ党からは梶谷泉党首、梶谷敏夫さんに出席していただき3分間スピーチをお願いした。これがまた感動的であった。その他の賛同団体は日本環境学会、大気汚染測定運動東京連絡会、公害・地球環境問題懇談会、すみよい環境をつくる東京住民運動連絡会、高尾山の自然を守る市民の会、日の出弁護団、青梅の水とごみを考える会、たまあじさいの会であった。

 思えば丹沢ブナ党に私を誘ってくれたのも三輪さんだった。横浜開港記念会館に喜び勇んで、でかけて行ったことが思いだされる。それ以来、鈴木桜子さんや泉さんにはどれほど励まされ、慰められ、勇気づけられて現在に至っているか。それも、山を愛し、なによりも平和を希求してやまない三輪さんの思いがさりげなく人と人をつなぎ心やさしい人々をさらにやさしくしてくれるのだった。そして、七月の雨上がりの虹を見上げるように無垢な希望をいだかせてくれるのだった。

 ある日、三輪さんに聞いたことがある。その情熱の源泉はなにかと。それは新聞記者としての戦争体験だった。生き残ったものとして誠実に執念深く反戦平和を心に刻んでいたのだった。まだ誰にも話さずに口を閉じてしまったことがあるように思えてならない。告別式の時、私は顔をよく見せてもらった。少し口をあいて歯が見えていた。言いつづけ、たたかいつづけ、抗しつづけ、あきらめず、しつこいほどに、嫌われるほどに、行動する、覚悟の人であった。

 丹沢のブナが立ち枯れている。酸性の雨と霧がしのびよってくる。アフガニスタンでは、地下水脈が涸れ、ヒンズークシュの峰々に雪が積もらず日本の医者が井戸を掘っている。文明の終わりが山の上からやってくる。なにをなすべきかわからないままに、私も今、生き方を変えなければならないと思っている。82才まで三輪さんのように生きられる自信はないが。

2002.7.25

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