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─── 思い出すまま ───
 
春は土塊とまわむれて

 展示の仕事は景気ともろ連動しているので、株がここまで落ち込むと仕事がなくなります。そんなわけで3月から時々サブや岡田さんのやっている公園整備などの土方仕事をやっています。土木といっても大型工事じゃないから気楽な仕事です。時には土いじりなかなか楽しい。いつもビックサイトとかホテルの宴会場とか巨大な建物の中が多いので、太陽の光の中、雨に濡れ、風に吹かれ、桜吹雪の中で仕事とはいいものです。

 先日までは農地の区画整理、辛夷が咲き、桜が咲き、花弁が舞い、新芽が毎日大きくなる。雨の日は泥んこ、風の日は砂ぼこりで目が開けられない、でも晴れた日は春爛漫を実感できる。

 

テロ・・・戦争

 ニュースでアフガンが少し落ち着くと次を待ちかねていたように、パレスチナ・・・と戦争の話が絶えない。滅入ったときなど憂うつになります。

 テロする人間について考えてみた。日本でも最近のオーム教や一昔前の赤軍派のテロはあった。最近ではアルカイダのテロが世界を驚かせた。でもパレスチナのテロはちと違うと思う。というは、親兄弟そして地域社会とテロスリストの関係が一緒。オームにしても赤軍派にしてもアルカイダにしても自分の生まれた社会と遊離しているのです。それだけパレスチナの場合は深刻だと言うことです。

 戦前爆弾三勇士とか美化され賛美されたり、特攻戦術しかない戦争の時期が日本にもある。優秀な若い青年が「死ぬことを仕事」にするとはそんなになま易しいものではない。彼らは特別な人間達ではない、どこにでもいる優しく、頭がよく家族の他からのような若者である。

 イスライルに強硬派の政権ができて一年、ユダヤ人はキリスト教社会で2000年差別されてきて、ドイツのホロコーストのようなこともあり、自分たちの国家を守ろうと言う意識が強いのだと思う。それがより弱いパレスチナ人への迫害という形になっているけど、それじゃなんにも解決しない。敵がいるとしたら、戦前三枚舌外交をやったイギリスであるし、ホロコーストのドイツであるし、冷戦下のロシアであるしアメリカなのだが。それじゃまるで戦前の日本です。今のような強行策を取ればとるほど孤立する。ゴリ押しすればローマ帝政下で国を失ったと同じことになる。イスラエル建国以来国際社会のルールを破ってきたのはイスラエルの方です。テロはよくないが、国連決議を何度も破ってきたイスラエルの方がより罪は重いと僕は思う。

 昔決闘と仇討ちとか個々人の紛争の最終決着の方法として美化されてきた、まだまだ国家間、国家と小集団の間では中世社会かも知れない。殺し合いはいずれにせよ「憎しみ」の連鎖を生むだけ、下等な紛争処理方法でしかない。

 テロはなくらならない。けして、強硬な民族政権があり、それを支援する大国があるとき、潰しても潰してもテロは生まれる。それが人間と言うものです。それはテロを受ける国が変わらなければと僕は思う。



富士桜

 4月10日に富士山にドライブに行った。

 甲府盆地の葡萄や梨、桃の畑の中を車を走らせると、ここも今年は花が早く例年だと今が桃の満開の時期なのだけれど、今年はもう散ってしまい、畑と山林の境目あたりまで登ってはじめて満開の桃が見られた。

 芦川村、精進湖進む。ここは僕のいる上野原から二週間遅れだろうか、まだ木の芽は芽吹いておらず辛夷が咲き始めたばかりである。

 ここまで来たらいつも弘願寺に行く時素通りして気になっていた白糸の滝を見に行こうと、本栖湖、田貫湖経由で車を走らす。染井吉野の満開である。水の何と奇麗なことか。富士山の伏流水が造る谷川は澄み切っている。成る程成る程、日本で数多くある伏流水の造る白糸の滝の中で大きい部類には入るであろう。何よりも水が奇麗なのがうれしい。

 そこから引き返し、青木ヶ原樹海の中を通り鳴沢村に抜け、別荘地の立ち並ぶ林の中に入った。あるではないか、富士桜が、それも今が盛り、みんな低い灌木ばかり、低い奴は1mから高くても5~6m。まだ芽吹きも始まっていない殺風景な林は、染井吉野などの饒舌な花とも違い、山桜よりもひかえめな花が点々と、更に進むと林いっぱいに淡いピンクの小さい花を付けている。そうこの桜、山桜の一種で小桜の仲間で花弁がひとまわりちいさい。さらに富士山の周辺しか生息していない珍しい品種なのです。

 今年は桃の盛りも見逃した、武川の神代桜も行けなかった。代りに富士桜を見ることができた。今年も桜を見た。帰りに浅間神社に御神籤を引いたら「大吉」であった。いい富士桜見物であった。

 

若いと言うことは

 暇な時など若い頃のことを思い出してみたりすることがある。「若さ」とは何でしょうかねえ。僕はずーとアウトロー人生を歩いてきましたが、若かった時分自分に強いてしまった方向性です。これはなかなか強く簡単には修正できないものです。そして、それが本当に正しかったかと考えること時にあります。というのは、若い頃参加していた水俣病の運動にしても、派手な動きのあるときだけ支援活動した僕らより、地味だけど無理なく気長にボランティア出来る人の方が、世の中のためにはなると思うし。また、その後始めた絵にしても、子育てを終え再び活発に活動し始めた友人達を見ていると、病気するほど気だけ詰めてその割りには余り成果が上がっていないようにしか思えなかったりする。

 学生運動が下火になり、皆なが卒業だけはしうと授業やゼミに戻っていった友人達、また親や兄姉の意見も聞かず、退学届けを出しに行ったときのことは今でも覚えている。「程々」ということが出来なくて夢遊病のうな、かろうじて精神病にならないように精いっぱい行動していた。といえば当時の僕の言い分だけど、もうちょっと利口に立ち回れなかったのか。とこの年になって考えるわけです。

 青春が若々しい精気にあふれた時代である。とは少なくとも僕についてはそんなふうには思えない。不安や解決できない問題やなかなか見つけだせない夢、苦しさだけが大きくていつももがいていた。今でもいい時代だったと懐かしむ気にはならない。もちろん節目節目でそれでも仕方ない、自分で簡単に人の言う価値観を受け入れまいと決めたからですが、今思うに時間的な余裕持つとか、うまく立ち回れなかったかということです。うまく処理できなかったのが若さと言うことかも知れない。

 反省は出来でも今さら時間を戻すことは出来ない。そして今でも先のことを考えると真アッ~闇です。その意味では若かった頃と何あ~にも変わっていないのかも知れない。「闇こそ我が人生」とちょっと気取ってみましょうか。

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