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水眠亭日記

山崎史郎

「蕎麦考」と題して五回殆連載致しましたが、今回で最後にしたいと思います。「蕎麦を打つ」事にはふれませんでしたが、今後、乱蘭通信読者諸子とも「蕎麦の会」にてお会いできることもあろうかと思いますので、その折りにでも私の拙い「蕎麦打ち講釈」でも聞いて下さい。

「もり」や「せいろ」は、あれほど簡素でありながら、立派に商品として通用する。それも蕎麦の代表格に位置する。いちばん簡素な形のものが蕎麦の代表格にあるということは、すなわち、そばが、そばそのもののうまさを楽しむ食べものである、ということにほかならない。そしてまた、そばは余計なものを加えずとも、そのもの自体が他に代えがたい魅力をそなえている。ということでもある。(片倉康雄「手打ちそばの技術」)

昼飯時に都心のオフィス街のそば屋を覗くと、どこも盛況で蒸籠や種物が飛ぶように売れています。そばを栄養学的に見れば、そば粉の熱量は白米や小麦粉、押し麦などとほぼ肩を並べて遜色なく、たんぱく質は白米の約二倍も多く含まれています。その点、ビタミンBの含有量も白米などに比べてはるかに豊富で、薬効成分ととして動脈硬化や脳溢血を予防するルチンや肝臓を守るコリンなどもあり、優れた栄養食品としての評価を得ています。ですからそばを御飯代わりにしたところでなんらおかしなことはないのです。

しかしそばは本来、腹を満たすといってもせいぜい空腹を紛らわす程度の、いわば虫封じ的な食べものであり、あえていえば、そばには趣味的な食べものとしての地位がふさわしいと思うのです。このことはそばの膳の組み方を見れば明白です。膳の上には蒸籠に盛られたそばがあり、それにそば猪口とそば汁の入った徳利、一、二種の薬味が盛られた小皿が添えられているだけです。このいたって簡素な膳組には日本料理のそれに見られるようなこれ見よがしの、押しつけがましさはありません。この膳組を前にして、まず求められるのは、食べる人間の想像力です。さらにいうなら、想像の中の趣味性でしょうか。 「そばを構う」という言葉があります。

そばはゆでて水であらったあと、小分けにして溜めザルに盛り、水きりをします。心あるそば屋では水が切れ掛かった頃を見計らって蒸籠に盛りますが、大勢の客を迎えるそば屋ではそれもままならず、十分に水切りが出来ない状態で持ち出すこともあります。それをそのままかき込むように食べるのも結構ですが、それではそばのおいしさの半分を失うことになります。なぜなら、そばは水切りが進んで、いままさに水が切れ掛かるというときに、よい香りを発するものだからです。

そばが乾くまで一献傾けるのもいいでしょう。蒸籠に盛られたそばの上側を箸でちょっと返してみて、水の切れ具合を確かめます。まだ理想の切れ具合ではないときは盃でも傾けながら待ちます。そして香りのよいところをおもむろに箸をつけるのです。これを「そば構う」といいます。そばを構いながら、暑い夏の盛りから続いてきたそばの短い一生に思いを馳せるのもよいでしょう。頭に浮かんだそばの俳句をなぞらえるのも、よし。

「蕎麦打てる漢おとこに冬日動きけり」 史郎


とにかくそばは構ってやることです。そうでないとこんなに味気のない食べものも又、ほかにないでしょう。そして、趣味性のある想像力をもって接すれば、どんな珍味佳肴かこうよりも妙味ある食べ物になるのです。



そばに酒はつきものです。そばという極めて単調な食べ物に変化を与え「遊び」の境地に誘う口火のような役目を果たしてくれます。昔から「うまい酒をのむならそば屋にかぎる」という根強い定説があって、事実、そば屋の亭主には酒に明るい人が多く、東西の銘酒を取りそろえている店も数多くあります。そのせいでしょうか、そば屋には昔から独特の肴があり、なかでも「そば味噌」と「揚げそば」はいかにもそば屋らしさを感じさせる酒肴の双璧といってよいでしょう。

そば味噌は、味噌に甘汁と砂糖を加えて練り上げ、煎った丸抜きを混ぜ合わせたものです。味噌はどんな味噌でもよいのですが、出き上がりの色やほどよい甘味の点からいえば、大豆と米麹を等割で作る江戸味噌などはうってつけです。江戸味噌は甘口の赤味噌です。鍋に甘汁を入れて強火に掛け、煮立ってきたら砂糖を加え、十分に煮溶かします。つぎに味噌を加えて火を弱めて溶き混ぜます。このときの火力は中火。鍋底に焦げつかないように注意しながら、木杓子を使って一時間ほど気長にかき混ぜ、仕上げに赤唐辛子の粉を加え、火から降ろして自然に冷ます。丸抜きをフライパンできつね色に煎って冷めた味噌に合わせます。同工異曲の物に「焼き味噌」があり、こちらのほうは作ったそば味噌を宮島(木杓子)に塗ってちょっと焙ります。焼きめがつくことを考えると、色の白い京風味噌(白味噌)が合います。ボウルに味噌を入れ、さらし葱、かつお節を加えてよく混ぜ合わせ、宮島に薄く塗りつけ火にかざし焼き目をつけます。折々にふきのとうや、紫蘇のはなどを刻んで加えると季節感のある楽しい一品になります。揚げそばは、そばを油で揚げただけの簡単なものです。そば打ちの時に出た切れ端等を使うのが本来です。

そば屋特有の酒肴には、このほかに卵巻きや焼き海苔などがありますが、材料はいずれもそばメニューに使うものばかりです。

最近はそばがきも酒のつまみとして味わう一品です。そば粉だけでももちろんおいしいのですが、山いもを加えて練り上げ「かえし」にわさびをつけて食する。おつなものです。

おわり

参考文献 「蕎麦百景」(浪川寛治)

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