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  捨て時・やめ時・見切り時
                              菅野ゆきえ
 
 
 今、頭を悩ませていることがある。
ひとつは大量のアルバムをどうするか、である。
 今夏からうちのマンションの大規模なリフォーム工事が始まる。各戸の床を剥がして排水管を全部交換するのだという。我が家も台所や風呂、洗面台、トイレなど水回り関係の床はもちろんのこと、もう一ヶ所玄関わきの小さな納戸のような部屋が対象になる。床下にパイプが通っているらしい。だがこの部屋には、我が家の50年近い歴史を物語る大小のアルバムが52冊も整然と並んでいるのだ。
 
 このアルバムをどうするか。
 
 別の部屋に移す、あるいは工事箇所じゃない所に寄せる等いろいろ考えた。しかし、どの部屋も一杯な上に、壁紙や床材の張り替え工事をオプションで頼んでしまったこともあり、この際やはり整理した方がいいだろうという結論に至った。
 ところが困ったことに、このアルバムはタイムトラベル温泉の入り口になっていて、何時間でもどっぷりと首まで浸ってしまう私がいるのだ。
 もうとっくに結婚して出て行った二人の娘たちが、アルバムの中で真夏の向日葵のような笑顔を見せている。ああ、これは確か遊園地に連れて行った時のものだ。こっちは遠足の写真だ。一緒に写っているこの先生は何ていう名前だったかな。元気かな。これは家族で高尾山に登った時のものだわ。この子ったら帰り道で転んで大泣きしたんだった。
 
 7年も前に亡くなった夫が、得意そうに微笑んでいる旅行写真も出てきた。これは四国の金比羅様に行った時のもの。長い石段を頑張って登り切って振り返ったところを下から撮った写真だ。あの頃は若かった。そういえば二人でよくいろんな所に出かけたっけ……。
 あー、ダメだ、きりがない。やっぱり捨てられない、どうしよう。
 
 たまにやってくる娘たちは口々に、
「お母さんが死んじゃった後、誰がこの家を片付けると思っているの?今のうちにせっせと断捨離しておいてくれなきゃ私たちが困るのよ」と、
 あたかも私がもうすぐ死ぬかのようにギャンギャンのたまう。
 
 そういえば昨今の写真はみなスマホやデジカメに保存してある。台紙に1枚ずつ貼られ、コメントまでついた分厚いアルバムなど時代遅れも甚だしい厄介物なのかもしれない。
 
 「お母さん、ついでに言うけど、あの猫グッズも早いとこ何とかしてよね」と、下の娘。
 
 ああ、そうだった。リビングのサイドボード片面一杯を埋め尽くす可愛い猫の飾り物たち。前世は猫だったんじゃないかとみんなに言われるくらい猫愛激しい私が、行く先々で衝動買いしまくった招き猫やぬいぐるみ、マグカップ等の猫グッズが、およそ百数十個もぎっしりと飾ってある。
 
 中には猫柄の折りたたみ傘や猫口のペンケースなんて物もある。友人たちに貰ったものだ。どれもこれも愛おしい小物たちばかりで眺めているだけでほっこりする。
 でも、もう収集はやめようと思う。娘の言うとおり、残されたって何の役にも立たないものばかりだ。収納するサイドボード自体の劣化も目立ってきた。哀しいけれど見切り時かもしれない。猫グッズたちには「ごめんね」と、一体ずつ頬ずりしてさよならしよう。
 
 あ、でもこの子だけは……。この子も…可愛過ぎて捨てられない! どうしよう。
 悩みはまだある。和室にデ~ンと居座る本棚の中の大量の本だ。
 退職したら余暇に読もうと、何十年も飾っておいた埃まみれの黄ばんだ『世界文学全集 全30巻』なんかは、この際BOOKOFFに引き取ってもらうことにしよう。退職はしたけど老眼で細かい字は見えないし、読む根気もなくなっている。本棚から溢れている文庫本の類や古い辞書なんかもおさらばしよう。
 でも、読み返すかどうか分からないけれど大好きな藤沢周平の全集は処分したくないと思う。あと宮尾登美子の単行本20冊も誰にも触らせたくない。それから茨木のり子詩集も……。過去の私はこれらの本にどれだけ教えられ励まされ癒されたことだろう。さんざんお世話になったのだ。捨てられる訳がない。そうそう、この本も……。どうしよう。
 私にはアルバムも猫グッズも本も、やっぱり捨てられないというものが多すぎるようだ。
 
 同年代の友人の多美子さんは「私、思い出はみんなこの胸の中に仕舞うことにしたの」と、全アルバムを処分したことをサバサバと報告してくれた。
 
 「そりゃあ寂しいわよ。でもね、こんな時代だからいつ何が起こるか分からないでしょう? どこかで見切りをつけないとね。ついでに服も布団もだいぶ捨てたわ。すっきりしたわよ」
 
 多美子さんたらなんと思い切りの良い人だろう。その潔さが羨ましい。そういえば彼女は十年前に亭主も捨てている。
 私は来年満70歳になる。記憶力は年々低下していく。多美子さんは「胸に仕舞えばいい」というけれど、「思い出」というのは思い出す手掛かりがあってはじめて色のついた記憶として立ち上がってくるものではないだろうか。時々手のひらに取り出してそっと眺め、それから顔を上げ幽かな明日に向かってそろそろと足を踏み出していく、そんな勇気をくれるのが「思い出」ではないだろうか。皆が皆いつも前だけを向いて生きていけるものではない。
 
 思い出の品を捨てたからといって過去が消えるわけではないと分かってはいるけれど、せめて色付きの過去を思い出す縁くらい、少しでいいから手元に残しておきたいと切に思う。
 猫グッズや本はともかくとして、アルバムだけでも工事が始まる夏までには何とかしなければならない。ぐずぐずしてはいられない。
調べたら今は、アルバムごと段ボールで送るとスキャンしてDVDにしてくれる業者があるらしい。目の玉が飛び出るほどの料金を取られるそうだが。
 
 ならば自分でやってみよう。
 
 これは、という写真だけを台紙からベリベリ剥がしてスマホで撮影する。PCに送ってデジタルアルバムを作っておく。それをCD-Rにコピーする。よし、このくらいならできそうだ。そうしよう。
 そう決意したはいいが、これは、という写真を選ぶのにまたまた悩み、いやそれ以前にどっかり座り込んでやっぱり過去にタイムスリップしてしまい、容易に戻ってこられない私が今日もいる。作業なんてちっとも進みやしない。
 本当に捨て時や見切り時は難しいものだと思う。このままだと私の人生の終わり時の方が先に来てしまうかもしれない。
 
4・20


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「逢いたいと逢ってはならぬの狭間にて」  菅野ゆきえ
百年書房 1000円+税


(乱蘭通信HPバックナンバーに過去の文章 載せてあります。)
http://ranrantsushin.com/backnumber.htm 
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