── 思い出すまま ──

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 今年後半、気になる国、中国
 
 昨年の夏、所謂シャドーバンクの問題が表面化する。中国政府は昨年秋に、一部銀行の預け入れ金利の自由化した。昨年表面化したのはごく一部で、今年の夏多くのこの金融商品が満期を迎えので、2014危機と言われています。銀行の預金金利が政府により低金利に抑えられていたため、高利回りの金融商品として売られ、銀行預金の役割を果たし、キチンとした統計に登らない資金なので、シャドーバンクと名付けられたわけです。この債券、金融商品を発行したのが、大企業や銀行で、そこで集められた資金は、地方政府が行うた公共事業関連の企業に流れたわけです。そしてこの資金の事業が資金を回収できない不良債権化しているわけです。日本円にして300兆円とも言われる巨大なものです。
 中国政府は全力で地方政府、主要銀行や大手企業は守ると思いますが、このしわよせはこの債券を買った中産階級と政府が見放した企業が取ることになります。沢山の関連企業が倒産し、中国経済全般に及ぶことになります。経済成長率が鈍化することになります。
 
 貧富の格差の拡大、大気汚染、民族問題、中産階級の権利意識の拡大とかっての日本や韓国のやうに、多様な課題に対応する政治が求められることになります。今年辺りが曲がり角になるのではないかと、期待しています。天安門事件以来、経済的に豊かになると言う「飴」をぶら下げ、情報の自由化、政治の民主化はことごとく規制してきました。経済成長の鈍化はその「飴」が色あせることで、今まで押さえられいたものが押さえきれなくなると言うことです。
 反日感情を政府が植え付けておきながら、過激になり過ぎそれが政府批判に変化するのでデモも許可出来ないとは、異常なことです。もうそろそろ形どうであれ、情報の自由化、政治の民主化は避けて通れないと思います。社会的な混乱は避けて通れません。しかし、それは中国人にとつては、豊かさとは何かを問い直す契機になるはずです。
 
 「韓流ブーム」で強く逞しくそして優しい韓国のスターが日本の中年の日本女性を虜にしたのは、政治の民主化が始まってからです。真似の文化ではなく、独自のヒーロー、ヒロインが現れて来たからです。恐らく中国も、中産階級の権利意識の高揚は、自由化、民主化と進み、中国文化を見直す方針に進むのだろうと思います。新たな映画やドラマが作られ、日本女性を虜にするスターが生まれてくるのだろと思います。
 中国の拡大路線は経済が右肩上がりの元に作られた思想です。反日感情も多分に同じ線上に着色されています。ルサンチマン、遅れたと言うマイナスの感情は少なくとも物質的には解消されて、次は心の豊かさへと向かうはずです。政治的、軍事的な拡大主義は影をひそめてゆくはずです。
 
 政治的、経済的混乱の始まりとも言えますが、中国人一人一人は、豊かな個性を持った人々へと変化してゆくのだろうと思います。
 中国社会が多様化の方向へ変化すれば、日本との友好のチャンネルも多様化するわけですから、反日、拡大への警戒感と言った、一面的な関係も解消する方向に変化するのだと思います。
 大雑把にそんな風に僕は考えるのですが。
 
野生化した花園 八高線の踏切近く 5/11 
 古代史は面白い・・道路 
──飛鳥、奈良時代に作られた道路網は現代の高速道路と同じ思想で作られた。それ故に、その後に作られた道路より、高速道路と重なることが一番多いのです。──
 
 田中角栄の日本列島改造論で全国を高速道路で結ぶ計画が発表されて、今はその計画に沿った幹線道路網が出来ている。歴史を振り返れば、全国的道路網の計画がなされたのは、明治期、徳川時代、そして飛鳥、奈良時代である。それは政治的には中央政権国家のなせる技です。
 律令制とともに整備された道路網がその後の日本列島の道路の基本になった。驚くのは、明治に至るまで、古代の道路が最も立派だったのです。
 古代の道路の道幅は畿内では20m、山陽道、東山道など幹線道路は12m以上、その他の国の道路でも8~9mと現在の国道と比較しても見劣りのしないのです。江戸幕府の五街道の道幅の3.6m程度ですから、非常に立派と言えます。
 古代道の特徴は道幅以外にも、真っ直ぐの直線を基本として、都に最も近い最短距離を選んでいるのです。それは、現代の高速道路の思想と同じなのです。丘は掘削し切り通し、湿地帯は土砂を入れ補強した。当時、導入された条里制の区画整理と共になされているのですか、愚直なまでにその原則が守られたのです。
 三十里(約16km)毎に駅家うまやが置かれ、常時馬が準備されており、駅鈴の持った役人の宿泊施設だったのです。中央と地方の伝令が速やかに伝わり、人や物の移動するインフラが完備していたのです。「天皇中心の、律令制に基づく国家を作る。」と言う意気込みの大きさに驚かされます。当時の人々の驚きようはいかほどであったか、です。
 
 庶民は竪穴式の住居か掘ったて小屋に住んでいる時代です。中央の伝令や役人の通行、牛馬、荷車の通行にだけにしては立派過ぎます。作るのは勢いで作れますが、その維持管理は全て地方の負担となります。日常的に軍隊が通るならともかく、これは広すぎます。また、都との最短距離を優先するあまり、地方の都市や要所から遠く離れているなど、道路を一番使う地方に住む人々にとっては便利と言い難いことも多かったのです。なにか現代の無駄な公共事業に似ています。
 奈良時代の末期になると、地方のの実情に合わせた、路線、道幅の変更がなされてるようになります。平安時代初期には、道幅は半分以下6m程度に修正されました。11世紀頃になると他の地方道と同じ幅1~2mと区別がなくなります。
 
 天智、天武、持統朝の政治的な勢い、「中国式の国家にするという」変革の勢いのなせる技です。地方の利便性を無視したこの立派すぎる事業に、この変革時の特殊な政治状況が読み取れるだと思います。唐、新羅連合軍に敗れ、国土防衛の為に、速やかな軍隊の移動のために、道路整備が提起されたのかも知れません。壬申の乱後、有力な豪族達の没落と王族による政治支配がこの事業を可能としました。王権の威力を地方に示す為に、最短距離と立派さが愚直に推進された。と言うことだと思います。
 
 
 ベトナム、反中国デモ
 西沙諸島での中国の油田開発の強行による、ベトナム国内の反中国デモが過激化して、ベトナムに進出している中国企業への放火とエスカレートして、見境なく、日本、台湾企業にも拡大している。
 ベトナムは社会主義国で、デモ自体が禁止されていたが、対中国デモだけは許された。禁止されれば、様々なものが鬱積するわけで、暴徒化するのは、ベトナムの国内問題の深刻さをうかがわせる。
豊かになれば、政治に対する要求も多様化するわけで、更なる自由化が必要と言うことです。ベトナムが更に豊かな国なるためには、避けては通れない道です。
 中国との関係は複雑です。中華帝国の一部でありがなから、独自の文化や政治を守って来たのです。その点は朝鮮半島ととても似ています。ベトナムが変わると言うことは、中国への影響も大きいわけで、東アジア全体が「自由化」という変化の時期に入ったことを意味します。
 ベトナム政府は一部のデモが暴徒化するのを見るや。デモを禁止した。いけませんね、それらはいずれもっと大きな反政府暴動へと変化するものです。民衆の中の不満を吸い上げる考索を講ずるべきなのですか。
 
 話が変わりますが、ベトナム人は日本人に近いのです。古代は揚子江下流に王国を作っていた人々、「越人」が南下して今のベトナムの地に移動したのです。その一部が海岸伝いに北上し、韓国を経由して日本にやって来たのか弥生人です。だから根の宗教観や生真面目な国民性とかが、日本と似ているのです。
巨大なゴジラの壁画 成城にある東宝 5/29 
 日本食の含蓄・・鮨(すし、寿司)
 今や日本食が世界を席巻しています。その代表格である「お鮨」の含蓄です。
 
 古代の鮨。鮨が文献に出てくるのは平安時代からです、中国でも六世紀の文献に鮨が出て来ます。記録はありませんが、恐らくもっともっと古く、揚子江周辺で稲作が栽培された頃から鮨は作られていたと思われます。古代の鮨の特徴は、一緒に漬けられたご飯は食べていないのです。半年一年間と、魚とご飯を漬けるので、ご飯がトロトロになり食べられないのです。乳酸発酵により、塩漬けとは違った、酸味が付いた魚がメインなのです。酸味による長期保存と言うよりことが目的ですが、豊かな酸味をつけることが目的で、ご飯を入れているのです。
 
 変化が起こるのは、室町時代です。漬け込む期間を短くし、ご飯も一緒に食べる「ナレズシ」の始まりです。今日まで残る、鮒鮨、鯖鮨など です。特定の地域の特産品として朝廷に献上されていたものが、庶民もハレの日のご馳走として作るようになり、早く食べたいという意識とともにご飯を食べないのはもったいないという意識が働いたのだと思います。古代貴重な塩が、比較的何処でも手に入りやすくなったことや、下克上で地方がまた庶民が力を付けてきたことがその背景にあると思います。
 
 そして、今日の鮨への大変身が江戸時代後半から晩期に起こります。漬け込まない鮨の発明です。穀物酢による酢飯の発明です。人間の早く美味しいものは食べたいという欲望が、発酵に時間のかかる、漬ない鮨を生んだのです。三ヶ月半年かかっていたものが、一ヶ月、一週間更に短くと、ご飯にお酢を混ぜる形徐々に変化することになります。各地にその土地ならではの鮨が生まれ、変化、進化し続けることになります。
 
 その変化の中で、江戸で今の握りすしが生まれることになります。握りすし自体は、各地に笹の鮨、柿の葉寿司などあるので珍しいことではなあのですが、独身男性の多かった江戸で、一膳飯屋、蕎麦屋など外食店が起こり、その一部として露店や屋台で販売されたのです。当初から外食食品という性格は変わっていません。江戸湾の豊富な魚介類を背景にしていたので江戸前という名前が付きました。乗せる具材は今日と余り変わらないのですが、冷凍庫無い当時は魚の下処理が必需条件でした。
 江戸前握りすしが全国に波及するのは、明治以降です明治政府が首都東たの特産品として奨励したこと、関東大震災、戦災で故郷に帰ったら寿司職人が、江戸前すしとして各地に広めたのです。しかし、各地には各地のすしがあり、なかなか伸びなかったのです。それが一変したのは、昭和22年の飲食営業緊急措置令です。食糧難の時代の法律ですが、喫茶店以外の飲食営業が禁止されたのですが、東京の寿司組合は当局と掛け合い、お米とお寿司を交換、米の加工業として寿司屋営業の許可を取り付けたのです。それが各地で米の加工業として江戸前寿司の販売は許可されるようになったのです。二三年後、こと法律は緩和されるが、一旦定着した江戸前すしの優位性は変わらなかったのです。
 高度成長期と共に核家族化が進み、家庭家庭で受け継がれていた寿司が、伝えられなくなり、回転寿司のような安価な外食がそれに代わって行くことになります。また、下処理した魚ではなく新鮮な刺身に載せる具が代わるのは、冷凍庫の普及以降です。
 
 古代の鮨のせよ、今日まで一貫しているのは、酸味を利かし、味を豊かにした食品。ということでしょう。ヨーグルトとか原材料としてはありますが、完成された食品として酸味を売り物にする鮨(寿司)以外にあまりありません。ブームではなく世界の料理の一角に定着したのではないかと思います。千年二千年の日本の食文化がありその哲学もしっかりしていますので、世界的になる必然があったのだろうと僕は思います。
 
 失われた二十年 差別について
 よくバブル経済破綻以降の日本の状況を「失われた二十年」と呼ぶ事がある。経済はデフレに陥り縮小の一途を辿り、人々は外に出るのでは無く内向きになり、草食男子と覇気のない男が増えとか、とかくマイナスなことが挙げられている。ある側面は正しいかもしれないが、何もかにも無駄な時代というものは、僕は基本的にないと思っています。
 
 ひとつ上げられるのは差別ということです。バブル以前は、なにかしら韓国、中国、東南アジアの人々に対してあったような気がします。それはアメリカ、ヨーロッパ人に対するコンプレックスの裏返しだろうと思います。バブル以降それが随分と薄らいで来たような気がします。日本人が「肩肘を張らなくなった。素直に表現出来るようになった。」からではないかと思います。
 差別意識は災害など緊急時に表面化します。神戸の震災で、在日の韓国人、中国人、他の国からの人々への差別は大きな問題にならなかった。関東大震災で朝鮮人差別を経験した韓国人から高い評価を受けた。直ぐに、外国人専用のボランティアも立ち上がり、言葉の不自由の解消に努めた。
 
 またこの時期、世界の国々では、日本食に始まり、アニメ、漫画、サブカルチャーがもてはやされた。それは今も変わらず世界に定着しました。その原因は日本人の変化にあるような気がします。見栄を張らず素直に外国人と接することが出来るようになった。それ故外国人の方も、ありのままの日本に興味を持てるようになった。と言うことだと思います。
 経済やかっての勢いは失ったかも知れませんが、それよりもっと大切な「信頼」を勝ち得たのではないでしょうか。
 
 今年も梅干し漬けました。
 昨年は大粒の南髙梅使ったいいが、土用干しまで完成していて、その後の保存に無頓着でほとんどカビにやられてしまった。南髙梅は水分が多くできあがりも柔らい。土用干したら常温でもカビは来ないと思い込んだのは大間違い。塩辛いのはいやなので最大限塩分を控えめにしていることもあるが。
 完熟した中粒の南髙梅見付けたので、そのまま漬け込んだ。一ヶ月後土用干しし、皮を乾燥し強くし、果肉は一様に柔らかくしたら、できあがり。今年は秋まで冷蔵庫保存徹底、です。
 

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