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  縄 文 現 代
                                澤村浩行
 
 
 今から1万5千年前、この日本列島に人類初めての土器が製作された。縄文文化が生まれた。1万5千年前!人類史上初めての土器!この日本列島で!
 恥ずかしながら僕は、その事実を昨年11月の芸術新潮 縄文特集号を、偶然に図書館で見て知ったのだった。
 
 他の世界では今から1万年以上前の土器はない。最古の文明メソポタミアで土器が使われ始めたのは今から9000年前、麦の貯蔵用であったと言う。 当時麦は貨幣だったから土の金庫として使われたのかも知れない。おなじ9000年前に南アジア、アフリカで土器が使われ始め、ヨーロッパ8500年前、アマゾン7500年前と続く。
 土器作りは世界各地で独自に始まったと考えられているが、それにしても1万5千年前の縄文土器は飛び抜けて早い今もって日本人が陶器に異常な愛着を感じるのは、遺伝子のなせる摩訶不思議な呪術の世界からのものだ。
 
 縄文人の土器はアク抜きのためだった。氷河期が終わった頃、一気に食料を確保できる大型動物が消えた。鹿や猪はすばしっこい。当時の鹿は大陸から渡ってきた大きなヘラ鹿だった。植生は豊かに繁茂する。そこで多分、女が土器を発明した、と考えられている。アク抜きをして植物性食料を得る事で食料の幅を広げ、より豊かなサバイバルをし始めたのだった。それは、母系社会の幕開けとなった。
 
 土器は、土と水と火を使った人類初めての化学反応であり、石器に次ぐ革命的な道具でもある。土器の発明を促したのは、日本列島の人口密度が、当時の世界ではとりわけて高かったからだった。全国平均では1平方kmあたり0.35人だったが、関東、中部では1平方kmあたり3人余りに達し、東海では4. 5人。弥生時代並だった。
 人口圧力が文化を作る。1万3.4千年前の縄文土器が青森から鹿児島種子島までのあらゆる地方に発見されているのは、この列島中に人が住めるほどそれだけ食料が豊かだったからである。
 
 土器によって定着が可能となった。それまで、足手まといとな身体となると狩猟中のキャンプからこっそり夜の闇に消え、一人最期を迎える事を常としていた老人も、一緒に住み続けられるようになった。子守に火の番、知恵と体験を孫に伝承して、一族のまとめ役としても尊敬された。遺体は集落の真ん中に祀られた墓地に埋葬された。先祖崇拝の原点である。
 世代間の分業と協力による情報の蓄積が、1万年に渡って縄文文化の活力を維持した。そして今から1万年ほど前には第二の土器、土偶が作られ始めた。呪術文化が集中されて来たからだろう。初期の土偶には顔がない。目に見えないスピリットの存在は、人間の常態を超えたものであると見なしていたから、顔をつけるのは怖れ多い事だった。
 二項対立の概念もでた。哲学性の現れである。7500年前には北海道で人類史上初めての漆塗りも始まっている。5000年前に新潟の長い長い雪に埋もれた冬の瞑想生活から、火炎土器が生まれた。なんたる情熱!翡翠のイアリングの精巧な作りを見れば、日本人の器用な手先と繊細な美意識が、それほど昔からのものである事を納得できる。
 
 
 話しはもっと昔に遡る。ネアンデルタール人が滅びたのは、男と女が分業をしなかったからだ、と言われている。女も槍を大型獣に向かって突き出した。 ホモサピエンスの女は皮を剥ぎ解体を受け持った。エスキモーが狩りに行く時に組む男女の分業方式は、能率を良くするためである。
 クロマニヨンの滅びたのは、槍投げ装置を使わなかったかららしい。氷河期後の敏捷な小型獣を仕留められなかった。ホモサピエンスの槍投げ装置は、弓矢へと発達する。
 
 縄文土器は男女の分業から世代間の分業までを可能とさせた。土器によって食生活を豊かとし健康となった。幼児死亡率が高かったために、平均寿命は30歳ほどとなったが、長生きした者も結構いたのではないだろうか。社会的には、近隣の一族とは反発し遠方とは交流する、遠交近攻をベースとした平和共存外交を維持した。
 
 かなり満足度の高い文化社会が僕たちの住む日本列島に長く続いた。
 他の大多数の人類はその後、農業、遊牧、鉄器、車輪、紙、騎馬、火薬、羅針盤、帆船、蒸気機関、電気、ケミカル、自動車、飛行機、ロケット、原子力、コンピューター、人工衛星などの発明をして、度々激変した。
 そんな物理的な発明と共に、音楽、舞踊、絵画、宗教、文字、法律、数学、哲学、生理学、天文学などの感覚や意識の表現手段も発達させた。そのハードとソフトの両路線は、DNAのラセン構造のようにスパイラルに絡まりあいながら人類世界を押し上げて来た。それは、富貧、身分差、人口、戦争の規模を増大させる、めまぐるしい時の流れを加速させた。
 
 
 僕は福島事故の後、選挙活動で状況を変えようとした。だが政治の世界に限界をも感じた。特に、昨年末の衆議院選挙の原発容認、食料自給の放棄、海外派兵促進、格差拡大の方針に、国民が雪崩こむ姿を見せつけられてからは。
 そこでこの冬は、自分自身の内なる遺伝子に宿る歴史を辿るだけの旅をした。もう71歳だ、と開き直り、贅沢な時を過ごさせて貰った。
文明の行く末を見るためには過去からの流れから学ぶべきだと思ったからだ。図書館から次々と借りた歴史の本を読み込む冬は、縄文人が火を見つめながら先祖を想う冬と重なった。
 内に籠る季節がようやく終わった昨日、近くの山で山菜を摘み、アク抜きをしていただいた。縄文の春に回帰した気分となった。
 
 縄文人は文字と青銅や鉄を使わなかった。従って単一栽培農業には手をつけず、国家も作らなかった。殺人の形跡はあるが、戦争はなかった。人口も増えず、自分達が自給出来る範囲の湾や河川流域や盆地の周りに住み、離れた土地の住民と通婚した。近親結婚を避けるためと、近隣の一族に併合されるのを嫌ったからだ、と僕は思う。単位は小さい方が独自のコミュニティー運営が出来る。そもそも、地形によって、ライフスタイルは異なるのだから。
 黒曜石や翡翠の貿易、粗放農業もやっていた。かなりのグルメの食生活で、精神性と美意識に秀でていた。縄文人は、土と水と植物の結晶した情熱の塊だった。ごく僅かな階級の差はあったようだが 奴隷はいなかった 
 
 その生活が現代に再生可能とは思わない。でも、自分自身の内なる縄文精神と美意識は、いかに時代が変わろうと日本列島の地盤と回りの海流に連なり僕を励ましている。タイムスパンを十分に取る事だ、と僕は時代の冬から目覚めて思った。先祖と子孫に想いを馳せる。 今、身の回りの事から手をつける。
 僕はこれまで書いた未発表の原稿を読み直し始めた。それは、先祖の僕が、今生きている子孫の僕にに書いたもののように語りかけて来た。自身の新たな発見をした僕には、隠居は出来ない。やることはいっぱいある。
 今日は、冬の部屋を覆い隠した内装を剥ぎ、洗濯機で次々と洗って乾かし、ひとつひとつ畳んで収納する事をした。それから、部屋の模様変えだ。ゆっくりと、コンピューターのブラインドタッチの練習に取りかかるかも知れない。もう、携帯の小さなモニターを見ながらタイピングする作業は限界に来ている。書きたい事、発表したい事はいっぱいある。その作業の結果、一人にでも伝えられたら満足だ。
 
 
 縄文時代に入り温暖化が進行した結果、日本海に親潮が入り込み、対馬海流も活発となった。日本列島はそれまでの大陸性乾燥寒冷気候から、海洋性湿潤気候に変わり、針葉樹林帯から、四季を持つ広葉樹林帯、一部は照葉樹林帯に模様変えした。縄文人も呪術やアートや哲学に籠った冬の後、春にはとたんに忙しくなったに違いない。そう、僕もこの冬あたりから、縄文帰りをしたみたいな季節の移ろいに身を委ねている。

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