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   「 山口と福島をつなぐ旅 」
澤村浩行
 
 2013年4月 山口市。地方都市郊外に移住してから1年9ケ月たった。当初は小鳥や蛙の鳴き声だけに浸っていたが、徐々に虫の動きが気になってきた。一昨年、2011年の秋には、スズメバチとカメムシがフラフラ部屋に飛び込むので、仕方なく網戸を張った。だが昨年のカメムシは、梅雨時に大発生をして、夜には濡れたコンビニの看板を塗りつぶすかのように貼りついていた。近所の人は、この冬は寒くなるよ、と言ったが、その通りとなった。スズメバチは、昨年を通じて一匹も見ていない。
 
 春の山口盆地には、朝から雀がさえずり、夕にはコウモリも飛ぶから、虫はいるのに違いない。だが日本蜜蜂は、新種の農薬によりほぼ絶滅した、と選挙運動を共とした山間の農民が言った。そして、稲穂の鳥害調査によると、全国的には、雀が6割減少したという。大阪郊外で立ち寄った友人は、一昨年から鳴き声がほぼ消えたと言った。建築関係者によると、大量生産式のユニット家屋の軒下は、雀や燕が巣をかけられない構造となっているからしい。草地の減少もエサ不足とする。これも太陽の異変な地球の異変も含む複合的な現象なのかも知れない。僕の部屋の近くに見える古民家の二階のしっくい壁には、小さな丸い穴が開けられており、雀が頻繁に出入りする。雛がいるらしい。昔の人は、小鳥の家にまで思い遣りがあった。
 
 
 
 今年の3月、安い鈍行列車を乗り換え乗り換えして福島に行った。僕は、自然の風景と人の表情には真実が込められている、と信じて旅をしてきた。表面的な印象に過ぎないと言われるかも知れない。だが、絶対数の表層をなぞって行けば、その深味にたどり着く、と思っている。その過程に応じて具体的な接触がある。
 
 静岡県東部あたりから、鈍行列車の乗客の表情が曇りがちとなってきた。素知らぬふりをしながら不安を抑えているように見える。晴れた東海地方の春なのに、車窓に流れる景色にも、あの地方特有のゆったり感が薄れている。これまでの71年間で一番長い時を過ごした首都圏は、かって旅から戻ったとたんに、人間の存在そのものがここの自然なんだなあと、ほっとさせてくれたのだが、今回はシラケたままに通り抜けた。一人一人の存在が希薄となって巨大な寄せ集め村の文化を感じられなかった。僕自身の感覚が変わったのか、時代の流れかは知らない。いわき市近くの乗り換え駅で、夜分の突風がJR路線を長らく止めた。東北はまだ寒かった。待合室は中高年の酔っ払い、ロビーやプラットフォームは遅くの帰宅を前とした会社員や学生風にあふれていたが、そのいずれもが静まりかえっていた。もののあわれとは、このような情況なのか?と僕は寒風の吹き込むロビーで、土地人の諦め切った静けさと微かに感じる体温を共とした。
 
 本能と知性の命ずるままに、ランダムながらこの20年間ほど、集会、署名、デモに参加してきた。議員に会った、選挙運動もした。座り込みさえもしたが、福島第1原発事故は起こった。今となって、戦後の経済成長の勢いに乗ってのしあがって来た僕らの世代は、苦い思いを噛みしめる人生の終盤にいる。昨年は地元の選挙運動に2回かかわったが、いずれも負けた。それからは、心の寒さを耐え忍ぶばかりの冬だからこそ集中出来る、読書と思索に明け暮れた。歴史の本と旅をした。よくぞ春を迎えられたものだ。蘇ったフェロモンは、事故の現場からの展望をしろ、と僕の背を押した。
 
 いわき駅深夜到着。突風が町の表をホコリもろとも削り取ったのか、あるいはジェット噴水機による除洗がなされたからか、ビルの壁からもアスファルトの肌からも、人間臭さがまったく消え失せている。道路の照明だけが生きている。人影わずかな歩道をしばらく歩くと、会場のライブハウスが辺りを圧っした存在を見せつけていた。大きな映画館を改造したという建物に入る。とたんに、ロックミュージックの轟音と汗臭い若者の群れて踊る勢いが、ウワッと僕を押し戻そうとした。
 
 僕はジャズ世代だし、若者は若者だけで楽しくやればいい、だったのだが、3.11以来は感覚や世代の枠を取り払った。特に今回は、さっちゃんの結婚式を兼ねている。さっちゃんは、大きな身体と大きなハートで惜しげもなく辺りをひとまとめにハグする若い女性だ。自衛隊のイラク派兵の時、立川の自衛隊官舎の郵便受けに、イラク派兵を拒否するようにとのビラを投函して逮捕された。5年間裁判闘争を続けたが、罰金刑の有罪となった。それにもめげず、新宿高円寺のラジカル文化コミュニティ素人の乱と連がる早稲田大学文学部正門前のカフェあかね創立メンバーとなったり、国会前や渋谷新宿路上デモの先頭を切ってジャンベをたたきアッケラカンと、戦争も原発もダメなものはダメ、と主張し続けているパワフルなミュージシャンである。僕が昭島に住んでいた時には、彼女の裁判闘争支援や、立川米軍基地を撤去させた砂川闘争を記念する祭などで近所付き合いをした。今回彼女がいわき市の青年と結婚するのもシンボリックだ。関東と東北の間に弥生時代以来横たわる断層をつなぐ可愛い一歩、大切な一歩であると。おめでたい集まりに福島を訪れるのも、縁起が良い。関東東北の若いバンドとそのファンも大勢集合し、二晩連続のライブは飯つきの泊り込みだという。僕は、焼津の第5福龍丸ビキニ環礁被曝メモリアルデイと東京のビデオ編集作業の合間を利用して駆けつけることとしたのだった。さっちゃんに僕の詩を朗読してお祝いもしたかった。物語性とタイミングの符合する出逢いの旅は、そう流れていった。
 
 とりあえず、だだっ広いフロアーの隅にバックを置いて、その上に座り込む。目と耳が、めくるめくる照明と喧騒に慣れてくると、白髪化したビート族も数人紛れている。時間を逆にたどって見れば、昔の仲間だった。挨拶に一巡する。どこかしらで会ったことのある若い男女も声をかけてきた。3.11以来、世代やジェンダーや地域の枠が緩やかとなった。何事も100パーセント良いも悪いもないんだ。どんな情況でもポジティブにつながること。ここまで極まった時代の誰しもが、ともに生きている一人の人間、運命共同体の一員なのだと。ただ、出逢いの場に50歳代の影が薄いのがいつも気にかかる。バブル期に、維持発展可能な青春を焼き尽くしたのだろうか?再稼働にむけてのウォーミングアップ中なのだろうか?
 
 そしてライブ終了した丑三つ時。フロアーを浄めブルーシートを敷き詰めた。全国の仲間が作って送ってくれたベクレルゼロの食材を花婿がスタッフと奮闘して料理した友愛の甘露たる飯やらカレーやらおでんが出現した。同じ釜の飯を食う。ここまで来た甲斐がある味がする。食後の団らん。寝袋が次々とバックから這い出てきた。それがランダムにフロアーに広がったら、遊牧民の赤ん坊みたいに中身は眠っている。あぁ これがシェアリングというものだ。
 
 
 翌朝早く起床。泊まったライブハウスの床は、椅子を取り払った一昔の映画館だから広く、そこに50人位の寝袋姿が寝転んでいる。一昨日も、1954年にグアムとハワイの間にあるマーシャル諸島、ビキニ環礁で被曝した第五福龍丸の母港、焼津の若者達が毎年3月1日から20日まで開催する平和文化祭会場の床泊まりだった。あの被曝事件時、僕は、小学校5年生だった。人生体験は無くとも、純粋に真実を掴む年ごろである。福島第一原発事故は当時の記憶を甦らせた。
 
 魚を食うな、雨に濡れるな、のパニック状況を僕は覚えている。そして特に母親達が反核兵器の運動に立ち上がった、それは最終戦争の恐怖ばかりではない。南太平洋からのマグロばかりか、日本列島全体が放射能に汚染された事を、本能的に感じたからだった。広島原爆の1000倍の威力のある水爆実験。マーシャル諸島住民の被爆後遺症は、現在でも深刻である。
 当時の日本は主権を回復した直後だった。反核署名3000万。全世界で6億。そして映画「ゴジラ」。なのに翌年には、東海村に実験炉搬入、1963年には、最初の原発が東海村で発足した。原子力平和利用、豊かな電化生活の一大キャンペーンに、国民は乗った。3.11後の衆議院選挙でも、同じどんでん返し。この、目先にぶらかげられたニンジンに飛び付く習性の根は深い。
 ちなみに、同じ1954年3月1日にビキニ環礁で操業していた800隻以上のマグロ漁船の船員も被爆、次々と早死にしたが全く保証されていない。マーシャル諸島は、1945年2月ヤルタ会談で、ルーズベルトがスターリンに君達は千島列島を取れ、俺達はマーシャル諸島を取る、と事実上アメリカ軍事基地とし、現在一部は迎撃ミサイル基地と化している。
 
 疲れを感じないのは、若者達から前向きな力を貰っているからだろうか。僕は起き上がると、真っ黒に内装されたライブハウスから、真っ白な街に出た。犬と散歩中の中年女性に会っただけで、朝の街には人気がない。見かけたゴミは、空き缶一個のみ。街は隅々まで清掃されいる。アジアの街が大好きな僕にとって、苦手な世界である。
 
 臭いも音もないきれいさに耐えられず、ライブハウスに戻った。入り口のキッチンは昼飯時の、ワイワイとした若い命が息ずいている。そこで会った昔馴染みの白髪は、海岸地帯をドライブしてきたけど、まったく何もないままだったよ、と言った。僕は、昨年会った双葉町からの避難民の話しを思い出した。
 
 地震が起きた時、彼は内陸側にいた。津波は30分ほどで来る、海辺の家には爺さんがいる。ギリギリ間に合うだろうと車を飛ばした。幹線道路は舗装がギザギザに盛り上がり、橋は通れず、とっさに未舗装の農道に切り替えた。俺はここに残る、とごねる爺さんを後ろから抱え車に乗せた。そして、農道から内陸に向かって突っ走る時だった。大地から湧きだすように、無数の蛇がうごめいてた。彼は農道に這う蛇の群れを轢いて行くしか津波から逃れる術はなかった、と言う。
 
 東北の3月11日はまだ寒かったはずだ、冬眠中の蛇さえ穴から飛び出す地震の衝撃、迫りくる津波の恐怖。津波の跡地には、虫もバクテリアさえも生き残らなかっただろう。そして、見えない放射能の津波は、静かに命を蝕み続けている。
 
 もう、飼い主が薬殺するに忍びず牧場で飼ったままの馬に異変が起こっているという。生物科学者による調査では野猿の赤血球とは血球が減少し免疫力も落ち、蝶や貝にも異変が見られるという。かなりの数の子供達の甲状腺に、小さなシコリが始まっている事を福島の町医者が報告している。チェルノブイリの例では、それが隠しようもなく現れるのは、事故から5年目だった。
 
 衆議院選挙後に進行している憲法、TPP、消費税、軍事、教育、情報統制などの津波の勢いは、原発事故の結果が隠しようもなくなる、今から3年目までに磐石とするのをターゲットとしているとしか思えない。
 
 
 福島からの避難民が、別の話しをしてくれた。内陸の都市に避難してから暫くすると、子供達のホールボディーカウンターによる被曝検査があった。2リットルの小便を採取して測った結果、最も数値の高かったのは、双葉町駐在の東京電力社員の子供であったと言う。その子供の父親は、福島第一原発に勤めていた。事故の後、自分の車を原発の敷地に残したままだった。それを、事態が安定してから取り戻し、子供を乗せていた。本来ならば、原発駐車場に置き去りされた車は、被曝しているからと補償されることとなっていたのに。
 
 東電社員でさえも、放射能被曝をこの程度に認識していたのだ。事故収束の最後の手段、腹水機の稼動を試した事もなく、その在りかを、事故の後に設計図を探しだして見つけても、決死隊員二人に防護服を着けさせたのかも定かではない。二人は数値があまりにも高いので引き返した。原発を製造した者しか、その機能も危険性をも知らないと言うことだ。東電は炉を損傷するからと海水注入を遅らせた。3月14日には、自衛隊と米軍に後事を任せ全面撤退を内閣に打診さえしている。その内閣は、放射能汚染を予想するスピィーディーの存在を知らず、その担当の文部科学省官僚も「聞かれなかったから」告げなかったという、薬害エイズや年金記録漏洩、事業仕分け等で民主党に反感を持った官僚の意図的なサボタージュ。備蓄していたヨウ素剤も配布していない。記者クラブの予算や広告費を出して貰っているからと、東電発表を受け売りするだけのジャーナリズムの不甲斐なさ。たった4人のニューヨークタイムズ社東京支店の記者が、当初からメトルダウンを指摘し連日正確に報道していたのに、日本の1000人を超える記者を抱える朝日や読売は、東電発表の受け売りばかり。メトルダウンを5月まで知らなかった。僕は結局ヨーロツパのスピーディーやアメリカのメデイアに頼るか、反原発団体のメディアや、正直で正確な科学者と技術者のコメントに頼ることとなった。福島の多くの住民は何も知らされず被爆するばかりだった。そして作業員、警官、自衛隊員、消防隊員も。
 
 
 午後遅くに二日目のライブが始まった。若いマイクの声にも楽器の勢いある音にも慣れた僕は、中味を味わえるようになった。ホンネを吠える若者達には、必死なものを感じさせられる。特に、秋田出身のスカラベリーズというバンドには参ってしまった。創世記を想わせる新鮮な言葉遣いに演奏、そして演劇性。世界にも衝撃を与えるほどの若い東北のアートが芽生えている。アートは危機に生まれる。
 
 文化力と精神力が、格差と紛争の広がる時代を生き抜くための鍵だ、と僕は思った。それを日常生活に根ずかさせることだ。特に若者や女性や老人が伝えあって流れを作って行くこと。僕は、その流れのひとつを福島で見た。
 
 舞台に、ギターを手にした年配者が現れた。1970年頃、飯舘村に入植したマサイだ。あの当時は、地元民にひどい差別を受けたりして大変のようだった。その後、養鶏業を軌道に乗せてからは、毎年夏に、満月祭と言うキャンプイン音楽祭を開き続けた。彼の農園バクは、近所に住み着いた若者とのコミュニティー活動も含めて、代替文化の拠点のひとつとなった。僕も行った事がある。イワナも棲む清流の脇、自然林に囲まれた桃源郷のような場所だったが、裏山の向こう10数キロには、福島原発が林立している。当然、彼は原発反対を唱え続けた。まさに、天国と地獄の両極に住んだ40年余り。彼が熱唱する歌に、その間の体験がこもっていた。そして、事故の体験も。
 舞台を降りたマサイと久しぶりに話した。以前はマサイ族の槍みたいに鋭く細く引き締まった体つきをしていたが、今はふっくらとしている。そして、同じ白髪族となった。
 
 「あの事故の時には避難したけど、放射能は山を越えたようで数値は低かったんだ。鶏に餌をやるため通い続け、また住む事とした。まわりの仲間は子供もいたから、みんな引っ越したけどね。去年、年配者だけに呼びかけて、また満月祭をやったんだ。今年もやる。人が来る限りやり続ける。」と、東北人となった昔なじみの言葉は少ないが、中身は濃い。
 1960年代から始まった、若者の地方に入植するという流れは、3.11以来加速した。特に九州では。昨年僕が参加した国東半島の虹の祭や阿蘇のレインボー2012などのキャンプイン音楽祭でも、2000人を越える参加者の半分ほどが新住民だった。地方の意識が都市化している。原発を過疎地に押しつけてきた都市の無神経な傲慢さを否定した若者達と地方の人々との出会いが何かを起こしている。このライブハウスにもワクワクするエネルギーが満ちている。
 
 僕は出番の前に楽屋に入った。若いミュージシャンが集っている。この日本ではごく稀な、自由で創造力に溢れている空間だ。そして、舞台を前として気が張りつめてもいる。僕は飛び入り出演だったから、ひとつだけ詩を朗読した。若いハードロックバンドが、すごく抑えたBGMをつけてくれた。無事に舞台を終えてホッとした。人と人が本音を伝えあうしかない。その流れに加わった。
 
 
 
 いわき市に二泊した後、群馬への鈍行列車乗り換えの旅に入った。車窓に写る、田畑や里山。想いは、故郷を去ることが出来ない人々、そして虫に鳥獣、海の生き物に及ぶ。3.11直後に避難してきたアメリカ人を含む数人とどうするかについて話した。結論は被災地をメガ風力発電地帯とし、高額な借地料を払い、福島県人には政府が国有地を30年間無償で提供したり、全国で740万戸ある空き家を修繕して斡旋するなど、数々のアイディアがでたが、具体的に手を付けなかった自分たちの力の無さを思い知った。
 
 東京では、数年前亡くなった放浪の詩人、サカキナナオの晩年をテーマとしたビデオの編集の助っ人をした。今、彼の最後の生きざまを伝えたいと。
 大正3年鹿児島生まれ。ナナオの家は裕福な紺屋で、小学校に人力車で通うほどのだったが、人工染料に没落、市役所の給仕から東京の日本青年館や雑誌社の書記などをした。戦争勃発、徴兵、海軍のレーダー部門で特攻機が次々と消えて行くのを見つづけた。戦後は、農作業。そして全国放浪。その詩は、足で書いたみたいな味がある。1960年代後半に、新宿のフーテン達とトカラ列島や信州の山でコミューン生活を始め、その流れは今も続いている。アメリカのカウンターカルチャーと関わり、渡米し放浪した。日本で自然林や珊瑚礁の保全活動を始めた1人、言わば、井戸を掘った人である。僕も何回か旅を共とした。晩年には、カメラマンも一緒に。だから、この映像作品は完成しなければならないと、久しぶりのビデオスタジオにカンズメとなった。その後、製品化のメドがついた、との知らせが来た。製品化しなければ流通しないし、影響もしない。
 
 
 
 山口に戻ってからも福島を思っている。山口県出身の佐藤栄作首相が18基の原発建設許可を出し、その中に福島第一原発の1、2、3、4、5号機が含まれている。そのせいか、あるいは維新時の白虎隊の悲劇で知られる会津戦争の故か福島県人で山口県に避難する人の数は少ない。
 この60数年間、戦争はなかったが、故郷の山河と海は経済発展の犠牲となった。生活は慌ただしくなり、家族や近所の人と付き合う余裕がなくなった。世代と世代、男と女の間柄も疎遠となった。心の病、自殺。
 福島第一原発事故は、そのような国土破壊と人心荒廃を伴った経済至上主義の暗部を露見させた。その路線は限界を越えたのだ。事故の後、テレビに写った東京電力首脳や御用学者や政府の高官の人間性を感じられない立ち振舞いが、それを物語った。あの人達に運命を預けていたのだった。
 
 そこで、昨年の7月、山口県知事選挙に立候補した飯田哲也の選挙活動に参加した。山口県は、一貫して天下りの保守系知事、保守系首相も明治以来8人出している、という保守大国である。
 中央政府からの投資が多いのは、車で山口県に入ったとたんに道路が立派になることでも解る。、第二次大戦の後にも岸信介に始まり阿倍晋三にいたる山口県出身歴代首相の選挙地盤は、管直人の他は山口県にあり、血族関係で結ばれている。
 
 
 維新の主役、薩摩と長州は、関ヶ原で負けた後に、九州南端と中国地方西端に小さく押し込まれた。両者は幕府による攪乱を防ぐための厳しい監視社会を隅々まで引き、殖産振興、密貿易の利を図って実力を蓄えた。薩摩は名君が続き、戦国武士さながらの上位下達の気風を維持したが、長州は、藩主の良きに計らえ主義のもとに、配下の武士の協力体制が育まれた。
 維新後に長州が政治と陸軍の主流を占めるようになったのは、長州武士の伝統が官僚制度に適応したからである。徴兵制度も、第二次長州征伐に四方面から進軍してきた幕府軍に対抗するために、高杉晋作や、後に初代陸軍大臣となり首相も勤めた山形有朋などの結成した奇兵隊をモデルとした、と僕は思っている。軍隊用語の、何何であります!、は山口県の田舎の婆さんが今でも話す方言である。
 奇兵隊は武士だけではなく、僧侶や神官や医者も含むあらゆる階層出身者によって構成され、郷土の存亡を賭けた厳格な西洋式訓練にゲリラ戦、薩摩や外国商人から得た優勝な武器、そして監視社会を維持した隠密のもたらす情報によって、旧態依然の幕府の大軍を破った。
 
 薩摩の武士集団と共に全国制覇の主役となったのは、関ヶ原前の密約を守り実戦に加わらなかったにも関わらず、ほとんどの元毛利藩領土を没収された長州武士の恨みも原動力となっていたのだろうが、下層階級出身の奇兵隊員が、維新を成し遂げた暁に厳しい階級制度から解放されることを目指したからでもある。しかし、下層階級出身の、特に部落民出身の奇兵隊は維新後にほとんど粛正された。維新は市民革命とはならなかった。
 
 初代首相伊藤博文は足軽出身の下忍、最下層の忍者出身であったが、頭脳優秀で松下村塾に学び、情報収集や裏取引に優れ、少なくとも一件の暗殺に手を下したという経歴だけではなく、士族に取り立てられてからは、鎖国末期に長州藩がロンドンに留学させた五人、いわゆる長州ファイブのひとりとなり、下関砲台が西欧列強四ヶ国艦隊を砲撃するとの報を受けるや、留学を半年で中断し井上薫と共に帰国、高杉晋作の片腕として下関砲台が破壊占領された後、列強との講和に活躍、賠償金は幕府に払わせ、下関沖の小島割譲を阻止した。西欧では後発国のプロシャの憲法を日本に移植、明治憲法を制定して帝国主義の基盤を築いた。明治維新の、ほとんどが元中流武士だった元勲たちが彼を初代首相に推したのは、あいつは英語が出来るから外国との取引が上手いだろう、と言うものだった。
 この経歴を見ると、バリバリの欧化主義者であり、後の日英同盟への道を付けたとも言える。明治維新の裏には常にイギリスの影がある。日本の明治維新とアメリカの南北戦争はほぼ同時期。日清戦争と米西戦争も。その結果台湾を得た日本とフィリピンを得たアメリカとの関係が始まる。西太平洋と中国をめぐる新たな列強の関係は太平洋戦争、日米安保と経済のくびきにつながる。精神性と文化も英米に従属してきたと言える。原発もその流れにある。
 体制に貢献する者は下層階級出身であっても引き立てるという長州の実力主義も、薩摩の、あくまで武士階級の枠内に収まっていた実力主義を凌駕した。官僚制富国強兵政策を押し進め、西南戦争で盟友西郷隆盛を葬った大久保利通が暗殺に倒れた後は、長州勢が隠然たる影響力を、政界に張り巡らしたのである。
 
 その一方で、下層階級奇兵隊員が夢見た解放の火種は絶えず、共産党書記長となった野坂参三や宮本顕一を輩出したように、山口県の極左勢力は根強い組織を誇り、日本海側の萩市近くに原発建設計画が二度に渡って計画された時に、その計画を中止させた主な勢力は、共産党であった。
 
 山口県社会の底流には、室町、戦国時代に北九州も勢力下として大陸間貿易で栄え、京都の戦乱から逃れた貴族や芸術家や職人を受け入れ、山口盆地を西の京都と呼ばれるまで育てた戦国大名、先祖が百済から来たと言われる大内氏以来の、大陸貴族文化がある。
 大内氏が下剋上に倒れた後に中国地方を制覇した毛利家は、江戸時代となると小さな萩藩に格下げされたが、隠密制度で領土を守り、殖産と密貿易で国力を蓄え、明治維新を成し遂げた。
 維新以来、アグレッシブな人材は中央に出て行き戻らない。その傾向は、戦後となっても続いた。移住民を含む瀬戸内海工業地帯の気風は違うが、山口県の主流は、中央に出た政治家の選挙地盤を守り、中央政府のインフラ政策に依存する保守派が占めるようになった。
 その、空気のように当たり前の構造を変えようとする者が、たびたび地方選挙で当選したが、二期目の選挙で保守派の巻き返しに敗退する例が多かった。そんな山口県の政治風土に、このままじゃ空気さえも吸えなくなる、と未来を憂い、なんとかしなくては、と探る人も増えていた。
 
 4期16年間勤めた二井前知事のもとで、道路や大きなイベント用施設の過剰な建設予算と、人口減と不景気による税収減の結果、県の負債は倍増した。若者は就職のため県外に流出を続け人口も減少、老齢化は全国6位。多くの過疎村が5年から10年後には確実に廃村となる。
 それでも、必要のない道路建設は進み、高層マンションは立ち、ユニット式住宅の建設数は全国一位、という土建業界のみが盛んだが、国自体の財政赤字が膨らむばかりの情勢での、先は知れている。
 しかも、二井前知事は上関原発建設のために、予定地田ノ浦の埋立を許可し、座り込みなどの強い反対運動にも関わらず強行しようとしていた。その工事は、福島第一原発事故により凍結されたが、2012年7月の山口県知事選挙は、無風のまま、山口県出身の元国土庁官僚の天下り自民党系候補者が当選するだろう、と言う、うんざりする流れが続いていた。
 だが、その告示20日前突然に、やはり山口県出身で大阪府のエネルギー問題審議官や、政府、東京都、各県で自然エネルギーのコンサルタントを勤めてきたベンチャー科学者、飯田哲也が立候補した。
 
 石器時代から、エネルギー、食料、軍事の三つの要素が、人類社会の基盤となってきた。原子力発電は、エネルギーと軍事に関わり、その破滅的な流れを変えるにも、専門的な知識とノウハウが必要である。
 彼は、自然エネルギー産業による地域起こしを提唱している。まずは、県内で使うエネルギーを自給すれば、現在外から買っている光熱費を節約出来、同時に雇用創出する。との地域循環型経済の最初の具体案を出した。単なる科学者ではない。エネルギー以外の分野はまだ未知のようだが、あらゆる原理は同じ構造を持つ。次々と学習してゆけばよい。
 時代を感じさせる仕事と文化とコミュニティーがあれば、多くの若者が地方に居着く。若者のローカル指向、自然回帰の流れは、お金に換算出来ない価値を人生に見出す、という当然の欲求にも根差している。特にバブル崩壊と小泉政権下に推進された新自由主義グローバル経済の時代から、UターンIターン組が、地場産業や地域コミュニティーの活性化に目立った役を果たしてきた。
 
 2002年7月1日 山口市中心近くに 飯田哲也県知事選事務所が開いた。周南市や下関市などにも開いた。同じ日に、大飯原発3号機が再稼動した。また同じ日に、バックアップの電源までが失われ、関東圏まで全滅出来る量の使用済み核燃料を貯めたプールの温度が上昇していた福島第一原発4号機が、30時間ぶりに元に戻った。
 山口県を全国に先がけて自然エネルギー産業で地域起こしをする。それが原発行政を変える。地方自立、地域循環型コミュニティーの連携が、新自由主義と軍国主義の勢いを止める。飯田にはそのきっかけを作る力がある。そう直感した老若男女が、山口市ばかりか、県内外から勝手連に集まってきた。突然に思いを同じにする人達が顔を合わせ仕事を分担する。互いの人間性も見る。面白い展開となった。
 
 県知事選の告示は7月12日 投票は7月29日。 エネルギー革命、社会改革のマニフェスト。それだけでは物理的、左翼的な構造主義の枠を越えない、と直感した僕達上関原発反対運動を通じて知り合った仲間は、アートフルでヒューマンな選挙活動をしようとした。あの上関原発反対運動にも、美意識と物語性をラセン状に絡ませて育んできたつもりだ。どんな出来事も、心を通わせ美しく表現するように努めれば、味わい深い物語となる、と信じて。
 
 これまで山口で会った事のない色々な人と一緒に、ポスター張りをした、チラシをポスティングしたり手渡しした。ノボリを手にして朝夕の通勤自家用車に国道脇で挨拶をした。山口県をくまなく走破した若者の自転車部隊に市内で合流した。夜は有権者に電話をかけた。
 その一方仲間達は、選挙事務所を生け花や植木やロウケツ染めの幕や油絵で飾ったり、ライブコンサートや、緑の公園でお祭りを開いたり、周南市の若者は、選挙に行こう!サウンドデモをした。
 僕はそんな催しの行き来に、仲間のアーティストのローケツ染めワークショップで作ったノボリを荷台に翻し、自転車で町を走り、行き交う人々に声をかけた。全国的に有名な坂本やゼットやあいちゃんなどの音楽家や宮台、保坂、嘉田などの論客や政治家、鎌仲などの映画監督が飯田の応援に来たから、レベルの高いパフォーマンスや講演や街頭演説を味わい学習した。
 
 カンカン照りの日ばかりが続いた。日がたつにつれて、みんながテカテカに日焼けしていた。原発は、特に命を預かる女性にとって見逃す事のができない。これまでの政治家と違ってソフト微笑みながら実現可能な代替案を話す飯田に、多くの主婦や若い女性が集まった。女性は家庭内にとどまる傾向の強い山口県では珍しく、選挙活動にも良い効果を与えたようだった。
 
 選挙戦半ば当たりから、追い風に乗っているのを感じて来た。チラシを配っても、辻立ちしても、自転車で走っても、電話をかけても、反応が熱い。
 事実上の一騎討ちだった。民主党も共産党も候補者を立てずほぼ飯田支持に回った。相手の自民公明支援する山本繁太郎も危機感を募らせ、脱原発依存は当たり前、上関原発は凍結、とトーンを軟らげた。投票率が上がれは無党派票も飯田に入る。僕達はラストスパートをかけた。飯田の、山登りで鍛えたタフな身体はまったく疲れを見せなかった。対する山本は、投票日前の数日間、風邪をこじらせて姿を見せなかった。
 
 結果は、山本25万票余り、飯田18万票余りで負けた。他に立候補した二人が9万票余りをとって票が割れた事もあるが、投票率が前回の36%から45%に上がっただけだったのも祟った。反原発、反オスプレイをマニフェストにしていたから、公安警察もかなり山口入りしていたようだった。顧客からのクレームで勝手連から身を引いた自営業の仲間を何人か知っている。かなりの票は彼らに持ってきいかれたと思う。
 しかし何よりもの敗因は、自分達自身にある。準備のための時間が足りなかっただけではない。日常生活のきめ細かな努力が足りなかった。
 
 山口県保守の固定票は岩のように固い。60、70歳代の投票率は最も高く人口も多い。彼らは変化を望まない。20歳代の投票率が異常に低く、その多くが山本に投票した。現在の就職口を維持するために、会社の方式に従った。かって小泉政権を若者たちが誕生させた結果、派遣労働法で貧しくさせられ事を思い出した。他の若者の多くは、誰が知事になっても変わらない、とシラケている。山口市勝手連に参加した20歳代は3人のみ。意欲的な若者は関西関東北九州の大都市に出てしまう。
 しかし、瀬戸内海岸の周南市は若者も多く、飯田の古里でもあるからか、山本に勝った。光市、防府市、そして山口県最大の都市下関市、第二の宇部市、第三の山口市はもう一息にまで山本を追い上げた。
 善戦したから、県知事選後の各都市に、未来山口ネットワーク、が誕生、僕も会員となった。レギュラーに講演会やツアーを開き、飯田も顧問として参加している。選挙で知り合った人との人間的な交流も続いている。いつも何かの運動の、ひと山を越えて感じる事がある。あの選挙運動にも参加して良かった。
 
 
 選挙では、単なる乗りでは勝てない事を学んだ。日常生活の積み重ねしかない、地元に根を張るしかない事を。
友達は自宅に太陽電池を据え付けた。僕のアパートには、大家がコンポストを設置、ゴミの量は格段に少なくなった。ここの北にある美祢市は全国一位のリサイクル率90%以上を誇り税金も少なく済んでいる。上関原発反対運動のミュージシャン仲間達は、福島の子供達を事故の前も後も撮影し続けた写真家と共に韓国をツアーして、福島の子供達を韓国に招待しようとしているグループと交流した。僕の家から歩いて行ける小山の脇に、800年前からの名水が湧き出ていて、退職後の老人三人があたりの薮を切り開き風流な庭園を作った。近くの棚田も復元させるつもりらしい。市内6ケ所にある足湯に続いて、出逢いの場所が増えた。小さくとも、散歩に立ち寄る楽しい場所が市民の力で増えた。
 僕は半生を、特に外国の旅にまつわる生業をしてきたから、円安で3割増えた外国人観光客の流れを山口県にまで繋げる案と英語のチラシを練っている。東は広島の原爆ドームと宮島の厳島神社、西は阿蘇山まて外国人観光客は多いのに、まだ山口県の何気ない素晴らしさに途中下車もしない。また、山口市にある、まだ状態の良い古民家を年金生活者むけ長期滞在型観光に使うの可能性も視野に入れている。四国の寺や神社はほとんど山口県周防大島の大工が建てたように、山口県の伝統家屋は良く作られ、風水とマッチしている。地方に必要なのは若者だけではない。勤めあげた仕事のノウハウと人生体験と資金力を持つ老人が移住すれば、若者のバックアップができる。若者にも彼らのケイタリングやケアーの仕事が出来る。世代間のギャップを埋める事も市民ネットワークのパワーとなる。この歩道の完備した小さな都市は、老人には暮らしやすい。しかも温泉、足湯、そして室町時代には西の京都と呼ばれただけあって、エレガントな店が揃い、飯屋はうまい。
 
 自然エネルギー大型プロジェクトは大企業が下関海上の風力発電などで進行中だ。選挙期間中に法令化された自然エネルギーの電力固定価格買取制度は、13年前に飯田が叩き台を作った。原子力ムラで勤めていた時には、ドライキャスク、使用済み核燃料乾式貯蔵装置、の製作チームに入り、事故がなくとも日々溜まり続ける核のゴミ問題に道をつけた。先見の明がある。
 しかし、彼が昨年末の衆議院選挙に立候補した時、県知事選の仲間達は盛り上がらなかった。地方から変える、というポリシーから外れた、と僕も思ったから、どうしても人手が必要な時にしか、顔を出さなかった。もちろん山口一区では自民党副総裁の高村が圧勝した。彼は忙しい身なのに、地元に帰ると数人単位を相手にして会う。僕も誘われて30分ほど話した事がある。まったく無表情ながら気配りの良く効く人だった。自民党の強味は利権だけではなく、人間的な付き合いの巧さであり、市民ネットワークはまだまだ幼いと思い知らされた。
 つい最近、参議院補欠選挙に立候補した民主党候補を応援するために、前首相管が首相体験者には終生つくSPに守られて、山口市亀山公園のアースデイを訪れ、少し言葉を交わす機会があった。顔は目まで終始穏やかに笑っていたが、仮面のように見えた。市民ネットワークからの政治家が頂点を極めた。国民ももっと長期的な展望を持って、オバマ政権が再選されたように、もう一期民主党に任せても良かった。太平洋を挟んで新自由主義と軍国主義にチェックをかけた最初の政権だったのだから。一期目はそれまでの政権の後始末をさせられるだけだ。米軍基地も原発も自民党政権の置き土産だった。菅前首相は東電の撤退を止め、浜岡原発を止め、自然エネルギー固定価格買い取り制度を成立させた。ただ企業は自民党支持、労組の連合は民主支持と双方の基盤は原発推進であるのは、日本にとって不幸である。市民政党を押し出さなければ、再び大変なこととなる。南海トラフ地震は遠からず来る。原発事故は民族のDNAを劣化させる。チェルノブイリ事故後の8年間に旧ソ連邦の平均寿命は7歳低くなった。未だに人口は減少している。日本人は食生活に注意深いから、最も危険な内部被曝は少ないかも知れないが余談は許されない。原発行政と憲法問題が論点となる。夏の参議院選挙は要注意だ。
 何かと、それまでは政治路線が続きそうだ。現場を踏むという壮年期の締めくくりは、その7月あたりか。
 
 インド人が辿るように瞑想や物書きに集中する林住期を経て、無所有無所属無私、人を拒むまず人を追わず、の遊行期に入りたい。でも、やることは思う通りに行かなかった過去が伝えている。あまり用意をするな、とも。
 
(完)

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