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企業戦士・その後2
今野 ユキ
 
 現在の日本の脳神経内科医学界では「認知症」を大きく次の3つの種類に分けているという。
 
1.「脳血管障害型」-脳溢血や脳梗塞により脳にダメージを受けた場合。
2.「アルツハイマー型」―脳の記憶を司る分野から侵されていく原因不明の病気。
3.「レヴィー小体型」-神経伝達物質が阻害されて記憶障害が進行する病気。
 
 昔は十束ひとからげに「痴呆」「ぼけ」「恍惚のひと」などと呼んでいたが、今の医学ではそれぞれの特徴や治療法も研究されてきているようだ。
 中でも3.「レヴィー小体型」は、ストレス社会の誰でもかかる可能性があり、増加の一途をたどっている病気だそうだ。専門医によると将来的には認知症の6割を占めるだろうと予測されている。一日も早い原因の特定と特効薬の開発が待たれる「病気」である。
 
 『明日の記憶』という映画(渡辺謙主演)のおかげか、広く「認知症」という「病気」が「病気」として理解されるようになってきたと思うが、患者にとってはまだ世間の偏見と差別・侮蔑の視線に晒される哀しい現実がある。
 私の夫は61歳。定年退職とほぼ同時に「レヴィー小体型認知症」と診断された。
 企業戦士だった。大手電気メーカーの営業マンとして、夜12時に帰宅して朝6時に出勤するような殺人的毎日をこなしていた。
 夜中の2時にトイレで倒れて 救急車で運ばれたこともあった。それなのに、翌朝強引に退院して、会社に出勤していった人である。
 私は何度も会社を休むようにすすめたのだったが、彼は何かに憑かれたかのように定年まで働きつづけたのだった。
そして、彼は発病した。
 大事なカードやキーなどを次々と失くした。娘や私に貸したとか盗られたとか、妄想を伴っていた。昨夜のことはおろか、たった今言ったことも全部忘れる。何度も同じことを繰り返し言い続ける。この典型的な認知症の症状をみとめた時、私はしばらく茫然自失状態だった。
 
 レヴィー小体型認知症には「アリセプト5mg」という薬が現在最もよく効く。
 早く専門医に掛かったおかげか、彼の症状は1年たった今、比較的落ち着いている。
 妄想も幻聴もなくなり、物をなくすこともあまりなくなった。物忘れは相変わらずだが、脳トレをしたり、新聞や本を読んだり散歩したり、規則正しい生活を心がけているようだ。
 定年後は気ままなアルバイトや老人施設送迎ボランティアをやりたいと言っていた彼である。こんな病気になってしまって無念な想いでいっぱいだろう。
 思うように回復しない自分に腹をたてて、イライラを爆発させることもたまにあるが、本来まじめで穏やかな彼の性格は変らない。
 病気のせいで友人関係を損なってしまうこともあるのだろうか。彼は何も言わないが、最近は好きなテニスクラブも「足が痛い」「ひじが痛い」などと言って行かないことが多くなってきた。
 掛かりつけの眼科医だって、彼の病名が分かったとたん蔑みの目を向けているのが私にもわかるほどだ。テニスの仲間にもきっと蔑まれることもあるのだろう…。
 忘れやすいという「病気」と公表しているのだから、メモをくれるとか、印をつけるとか、ちょっとした工夫と配慮があればもっと楽しく社会参加ができるだろうにと思うのは、私のわがままな希望だろうか?
 
 おとうさん、病気のことは考えないようにしようよ。
 体調を考えながら、憧れていた海外旅行をしたり、大好きな寿司を食べに行ったり、テレビでボクシングを観戦したり、たまにはコンサートに行ったりしようね。
 焦ったり自己嫌悪に陥ったりしなくてもいいよ。
 今まで、一生懸命働いてきたんだもの。人生の休日だと思ってゆっくりしようね。
 忘れたっていいじゃない。全部覚えていたら、人生には悲しいことが多すぎて辛いと思うよ。
 それにこれだけ医学が進歩しているんだから、きっともうすぐ、この病気の画期的な治療法が開発されると信じているよ、私。
 それまで「人間であること」だけは忘れないよう頑張ってね。

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