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 戦争・平和とそして
 アメリカの金融制裁から始まり、人民元の偽札も出てしまい、中国政府も北朝鮮擁護しきれず、中国銀行の北朝鮮資産凍結に踏み切った。ミサイル発射の背景にはこんな動きがあったのです。政治の裏はいつもお金の話です。さてこれからどうなるか。
 僕は北朝鮮には融和策は何の効果もないと思います。戦争、国連軍を組織して戦争して武装解除してもいいと思います。今時、一割以上の餓死者の出す政権はあってはならないからです。かってカンボジャでクメールルージュが大量虐殺をやったとき、国際社会は何もできずに手をこまねいた。ベトナムが軍隊を派遣してクメールルージュを森林に追いやった。中国は怒ったが、僕はベトナムの英断だと思う。こういうとき大国は融通がきかない。もはや北朝鮮は中国にとって政治的防波提にはならなく、リスクの方が大きいと、僕は思うのだが。一番いいのが、中国側の国境を開くことなのです。
 
 ここ数年、靖国の問題がクローズアップして深刻な国際問題になっていますが、遺族会からA級戦犯分祉論がやっと出てきた。遅いよね。靖国問題は日本が先の大戦の総括を何もできていないのがその一番の理由だと思います。指導者の結果責任と言うことを曖昧模糊としてきたと思います。もちろん、昭和天皇にもあるというのが僕の考えです。それを曖昧にしたアメリカの統治政策が間違いだったと思うのだが、一番大切なのが、外国がどうのこうのと言うより、敗戦の反省を日本人がいかに形に表現できたかです。彼(昭和天皇)個人は敗戦時に本当に退位したかったのだと思いますしね。
 彼(昭和天皇)が戦争反対の平和主義者であったことは知られています。明治憲法下で戦争に「可」承認したのは彼ですので、そう法的責任は取るべきだった、今でも取るべきだと思います。死刑にするとか言うことではありません。最高指導者としての責任があったと、現政府が声明を出すべきだと思うのです。一人の人間としてあれ以上のことは無理だったかも知れません。それはそれとして評価すべきだと思います。
 そういう作業の元に憲法改正して、自衛隊を国防軍としても、おそらく中国も韓国も了承するのではないでしょうか。軍隊は刃物です。戦争は常に自衛の元に行なわれるのです。ようはその使い方です。薬と同じです。必要に応じて使えば薬ですが、使い方を誤れば毒薬になります。薬を使う医者が健全化どうかの問題なのです。それは政府であるし国民なのです。
 
 「護憲」と言う言葉はあまり好きになれません。後ろ向きな感じがするからです。平和は常に積極的に捜し続けなけれは守れないものです。時代は常に変化しています。先の大戦後直後にできた憲法は圧倒的に「戦争にうんざりしていた」時期にできました。平和の形も少しずつ変わっているからです。国と国が戦争する時代は終わりつつあります。国と国の相互依存が何十倍も強くなり、戦争するリスクのほうが大きくなっているからです。日本はアメリカばかりではなく、中国やロシアや、韓国と安保条約を結べばいいのです。巨大な軍隊など必要がなくなります。
 「護憲」と言う言葉が嫌なのは、戦前の大正から昭和初期にかけ盛り上がった戦前の民主義運動が、「護憲」を一つの旗印にしていたと思います。それが脆くも軍部の台頭の前に崩れた歴史があるからです。平和も戦わなければ守れません。戦うと言うことは、新しい視点でものごとを見直すと言うことです。伝統も新しい形にリニューアルし続けなければ、とうてい守れないと同じことです。慈悲や愛を教える宗教が、仏の名の元に、あるはキリストの名の元に殺戮を繰り返してきたのが、人間の歴史ではありませんか。「平和は」前向きに捜し続ける中でしか守れません。
 
 僕は思うのですが中国はオリンピックが終わったあたりから、また政治の時代に移らざるを得ないのだと思います。「まねの資本主義」なら一党独裁でもできます。「新しい製品」「新しい中国独自の技術」を造り出さなければ、この世界甘くはないし、生き残れません。そのためには政治の民主化自由化は絶対条件になるからです。そこで一番参考になるのは日本や韓国や台湾の政治の形です。
 中国の先の見えている人は自民党一党支配の日本の政治がいいか、ロシアの強力な大統領性がいいか、など研究しているのではないでしょうか。中国が変われば、日本の平和の形も変わらざるを得なくなります。政治も経済のように相互依存体質になればいいじゃありませんか。東アジア共同体みたいな方向にね。時代はゆっくりですがダイナミックに変わって行こうとしているのです。
 
 過去の戦争もこれからの平和も、これからの二十一世紀をどう生きて行くかというかという視点で考えるべきですね。国際的相互依存がどんどん進行する世界です。伝統的な日本の哲学も宗教も修正、変更、進化して行かなければなりません。死んだら神になり、生前の罪は許されると言うのは同族社会だけに通じるの甘い考えでしょう。甘さは最終的に日本人の利益にならないと言う形で帰ってくるのです。付けを先に払うか、後に払うかの違いとなるだけです。
 
 品について
 人には品と言うものがあるような気がします。心の美しさと言うものがあるような気がします。人間関係にしても仕事にしても日常のさまざまのことはが次から次とへと洪水のように流れていて、とてもそんなもの考えている暇はありませんが、人生の節目節目の大切な時間にそれが全面に出てくるような気がします。
 信仰と一緒で、突き詰めた時、どんな哲学で物事を判断するかということによってその人の品が決まってきます。友人とは、そんな時その人の根にある「何か」をお互い感じ取ることができるから、友人である続けるのだと思います。
 出来たら品のある生き方をしたいものです。
 
 僕は「新しい季節」と御題目のように言い続けていますが、見ての通りそんなに新しいことは起こっていません。しかし、結果はそう重要ではありません。大切なのはその姿勢をいつも持っていることだと思います。
 それは、複雑な問題、人と人の入り組んだがんじからめの時などに、威力を発揮するのです。そんな時、ややもすると病的な状況に陥ります。病気は過去に捕われることから起こります。そこから最小限の悪影響で脱出するためには、前向きでものごとを処理するのが一番です。それが僕にとっての「品のある生き方」の為の方法の一つです。
 
 団塊の世代
 団塊の世代がリタイアの時期にさしかかり、社会がまた大きく変わりつつあると、連日報道されている。今まで家族や仕事に拘束されていたビートルズ世代が、新たにバンドを組んで元気な姿がニュースで流れていたりする。
 寿命八十年時代、老後と言うのには早すぎる。彼等は全共闘世代です。僕の三つ四つ上です。学生の頃反抗した世代です。何十年と閉じ込めていたものを今また爆発させようとしています。
 すばらしいことです。楽しみがあるから生きているのです。決して苦しいから生きているわけではありません。会社や国家や社会のため生きているわけではありません。自分のため、自分の愛する人のため生きているのです。
 健康的に楽しむと言うことはすばらしいことです。はっきりいって日本人は働きすぎ、世界を見渡しても、また日本の歴史を紐解いてもこんなに働いた半世紀はないと思います。団塊の世代が遊び初めて始めてバランスが取れると言うものです。
 「道楽」とは道を楽しむと書き決して享楽的楽しさではありません、世の中の道理がわかって、楽しむ心の豊かさのことです。
 
 すっかりお師匠さんのNoraさんと笑うMimiさん。
ミュンヘンの書道教室が盛況とか、生徒が多くMimiさ
んも手伝わざるを得なくなったととか。それはなにより。
 
 夏は木下で・・・そして秋は・・・
 表紙の写真は、昼寝をするのに一番気に入った木の下からの写真。夏は短かったけど、今年も蝉時雨の下で、良い時間を過ごすことができました。秋は真面目に働らかなくてはならない、金が無くちゃいけないしね。
 最近「同じことは繰り返さない。毎日毎日、一秒一秒、特別な時間である。決して同じ時間はない。」ということに行き至った。至極当然のことなのですが、これが難しい。同じ様な日々が続くと、ついついどれもこれも同じに見えて新鮮に写らなくなる。それを新鮮に受けとめる感受性を持つことは、大変な修業の後に到達する境地なのかも知れない。そのことを僕もちょっと分かった、難しいと分かっただけでも、少し成長したかも知れない。
 新しい秋、特別なものに感じられない秋かも知れない。でも、素敵な秋になることを夢見ることにしましょう。
 
 
 カニ坂公園      写真(ひげの男が仕切り役の招魂舎痴明 →
 痴明とサブがお祭りで踊るので手伝うはずだったのだが、痴明の体調が悪いとのこと、舞踏は中止になった。血圧が上がり耳がガンガンするとか、検査を受けたら、鼻の奥に炎症はあったが、癌とか重大なものは見つからなかったので一安心。
 八月の終わりの土日お祭りをやっていた。丁度仕事も忙しかったが、日曜日、顔を出してきた。久しぶりの友達に何人も会うことができた。

















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